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(一般に公開)

万年時計のゼンマイはなぜ真鍮なのか(9)   ――幸野吉郎左衛門2015年02月24日00:11
上掲写真は、渡邊庫輔著『長崎の時計師』(1952年・日本時計倶楽部私版)です。

この本は、長崎で活躍した江戸時代の時計技術者の事績について、多数の一次資料の引用によって考察しており、最終的には明治期の長崎の時計産業の発展にまで話が及んでいます。
著者の渡邊庫輔氏は長崎の郷土史家で、芥川龍之介と交流があり、龍之介は渡邊氏のことを「才学の優れている」と高橋邦太郎氏(翻訳家・比較文学研究者)に紹介しています(長崎の時計師P100)。この本は、和時計を研究するうえで極めて貴重かつ有益な参考書だと思います。

『長崎の時計師』は――
「享保十四酉(一七二九)年、長崎の時計師幸野吉郎左衛門は、将軍家の香箱時計を修繕した。」
――という一文から始まっています。この件を含めた幸野家の記録が残っており、渡邊氏はこの記録を詳細に引用して論じています。
「香箱時計」とはゼンマイ時計のことで、幸野家の記録に「阿蘭陀仕懸之通、昼夜長短なしにて」(同書P2)とあるので、この将軍家の香箱時計は西洋製のまま、不定時法に改造されることなく使用され、故障したと考えられます。

そしてさらに以下のような、この時計の修理見積もりが引用されています。
「一(※)太皷之内之大せんまい、全躰短く御座候故、車之めくりニたり不申候。殊ニせんまい弐筋入居申候故不宣候間、是又新規ニ拵直し不申候へハ不罷成候。勿論、弐筋ニ而ハ不宣候間、新規ニ拵申候ハ壱筋ニ仕候。則絵図差上候。」(同書P2)
※この「一」とは、項目を立てる意味の「一(ひとつ)」です(teacup注)。

つまり吉郎左衛門は、「ドラムの中に入っている大型ゼンマイが、全体として短いので、歯車を回転させるのに足りません。とりわけ、ゼンマイを二筋入れた形になっていてよくないので、新たに作り直さないといけません。もちろん二筋ではよくないので、新規に作るのは一筋のゼンマイにいたします。ご説明のための図をお渡しいたします。」と言っているのです。この洋時計のオリジナルゼンマイと同様の、鋼のゼンマイを作って修理した、と読めます。

吉郎左衛門は、刀鍛冶として高い技術を持っていたことが、記録として残っています(同書P5~6)。さらに彼は、将軍家の香箱時計を修理した翌年の享保15年から、長崎の出島に出入りすることを許されています(同書P1)。
吉郎左衛門は、その優れた鍛冶能力によって、時計に使用できる鋼のゼンマイを作ることに成功した。あるいは、長崎という地の利を活かして出島のオランダ人から間接、直接に西洋のゼンマイを輸入し、時計の修理や製作に使用した。どちらの可能性もあると思います。

享保年間つまり江戸中期に、もし幸野吉郎左衛門が鋼のゼンマイの国産化に成功していたとすると、その技術が他に広がらないまま、100年以上のちの久重の万年時計製作に至ったのでしょうか。
  • 時計仕掛けの文化

コメント

1番~10番を表示

2015年
02月24日
06:40

1: mr.hmv

おもしろい!

2015年
02月24日
10:23

ゼンマイの記述はありませんが海外オークションのデータから。
http://catalog.antiquorum.com/catalog.html?action=load&lo...
1850年頃の和前の印籠時計です。
バージ脱進機で、フュージー・チェーン仕様。
円天府&スチールのバランススプリング。
日本人は16世紀の初めには時計の機構を理解し、
独自の時計の生産を始めた。
懐中サイズの時計は、それらの時計製造の経験の
進歩の結果であり、1700年代の後半にはこのような
小型の時計が作られるようになっていた。
とあります。

2015年
02月24日
10:24

津田助左衛門が日本で最初の機械式時計を製作したのは
1598年(慶長3年)と記録にあるそうですが、
その真贋はともかく、日本の時計技術は相当早い時期に
高いレベルに達していたと考えられる。ただゼンマイを
動力とする香箱式の円天府時計の製作は、恐らく18世紀
後半以降になってからではないかと思うのですが、
この辺は素人なのでよく分かりません。

ともかく、鋼製のゼンマイを作る技術そのものは、結構
古くからあったのではないかと思いますし、実際に実用に
足りる物が製作された可能性もあるのではないかと思います。
ただ時計が普通に輸入される時代になると、補修部品も同時に
輸入されていたと考えた方が自然でしょう。

2015年
02月24日
10:25

しかし万年時計のゼンマイは巨大なので自作するしかない。
最初に鋼で試作した可能性もあると思いますが、これまで
考察してきたように、金属質の問題で折れやすかった可能性、
あるいは反発力が大きすぎて使えなかった可能性もあり、
結局、鍛造真鍮ゼンマイに落ち着いたのではないか?と
想像します。ただこの辺は相当和時計に詳しい人でないと
分からない部分なので、古典時計協会の人に聞いてみるとか…
http://www.nawcc108.org/link/index.html
あるいは収集家の岡田さんにメールで質問してみるとか
した方が早いかもしれませんね。
http://www.gaido.jp/sutekikai/OTM/

2015年
02月24日
11:07

5: mr.hmv

わからないことは聞いてみる。

ですね!

2015年
02月24日
11:14

6: teacup

トキオさん

貴重な情報ありがとうございます。

海外に流出した和時計に、調査研究に値するものがたくさんあります。このあたりは、海外の和時計研究家と連携して考察を深めていくと、とても面白いと思います。
今回、トキオさんとmr.hmv さんの対話で、ヨーロッパの懐中時計と万年時計の関係に新たなスポットライトが当たりましたし、英国のホロロジカル・ジャーナルに取り上げられているように、万年時計は海外の時計研究家にとっても、非常に興味のある題材です。和時計のコレクターは海外にも結構な数いるようですが、日本語というバリアに妨げられ、和時計の知識にいまだに飢えているのが実情だと思います。和時計について英語での情報発信が増える必要があるのですが、そこがまだ不十分な気がします。

「万年時計のゼンマイは巨大なので自作するしかない」というご指摘が、まさしく、万年時計に真鍮ゼンマイが使用された理由の核心ではないかと私も思っていまして、今回の話の最終回、第12回でそのことを語る予定です。

和時計の研究家、収集家として有名な岡田さんは、とても真面目な方のようで、和時計の論文もいろいろと書いておられるようですし、できればお会いして、この件についてじっくりお尋ねしたいところです。

2015年
02月24日
11:27

7: teacup

mr.hmv さん
おっしゃるとおりです。私は多くの方に教えを請うてきました。
疑問を持ち続けること、お教えいただいたことをうのみにするのではなく、自分の頭で再度、考え、多面的な考察を続けていくこと。それが楽しいです。

『永久運動の夢』(日本で翻訳が出ています。出版社は忘れました)という本を書いた Arthur W.J.G. Ord-Hume が、別の著書のなかで以下のように述べています。

“We all know something; together we may know everything.”

誰もが何かを知っている。皆一緒になれば、すべてがわかるかもしれない。

私はこの言葉がとても好きです。

2015年
02月24日
11:57

8: teacup

『長崎の時計師』の内容は、次の第10回に続けて述べますので、午後に第10回をアップします。

2015年
02月25日
00:14

実際に修理したことのある、一番詳しい人に聞けばと思います。
メッセージしておきました。

2015年
02月25日
00:32

10: teacup

buchinさん
修理した方の情報、本当にありがとうございます。

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