5月末から新連載【時計の賢人、その原点と「上がり時計」】を開始している。その名の通り、時計賢人たちの「人生最初に手にした時計」と「最後に手に入れたいと願う時計」を紹介する企画だ。
今回ご紹介したのは、名古屋の老舗「時計・宝飾ヒラノ」である。
濃厚な取材時間の中でも特に印象に残ったことのひとつに、ふたりから聞いたお店の歴史の話があった。それはひいては、名古屋、そして日本の時計の発展史にもつながることで非常に興味深いものだった。せっかくの学びだったので、備忘録として書き残したいと思う。
「時計・宝飾ヒラノ」は、尾張徳川家のお膝元であった城下町の名古屋で1915年に誕生する。
創業者は、平野明良氏、孝明氏の祖父にあたる平野義三氏だ。
義三氏が生まれたのは、同じ愛知県内の名古屋市の南、知多半島の中央部東側に位置する半田市である。若い日の義三氏は地元にあった私塾「鈴渓義塾(れいけいぎじゅく)」で学び、文明開化の波に乗って、名古屋で時計販売の事業を興すことに乗り出した。なお、この鈴渓義塾は他に、トヨタ中興の祖・石田退三氏、敷島製パンの創業者・盛田善平氏、戦艦大和の元艦長・森下信衞氏らを輩出したという。
なぜ義三氏が時計販売の場所として名古屋を選んだのかを辿ると、さらに古い歴史へとつながる。1590年代の末、尾張地方を治めていた徳川家康の元に、日本の時計技師の祖・津田助左衛門が召し抱えられたことがその始まりだ。津田助左衛門やそれを継ぐ子孫の元には多くの時計師が集まり、その子孫もまた時計師になるべくこの地で育っていった。そうして名古屋には時計作りの技術やノウハウが蓄積していく。
明治に入ると、海外製のボンボン時計が一気に普及する。ここに目を付けたのが、1886年にボンボン時計を日本で初めて国産化した、名古屋の時計商の子・林市兵衛(時盛舎、のちの林時計の創業者)だ。蒸気動力を使って時計の大量生産を成功させた林市兵衛の元には日本中から視察に訪れる人が絶えず、それは時の人たちの錚々たる顔ぶれでもあったという。名古屋の近くを流れる木曽川から運び込まれる豊富な木材も時計産業の発展を支え、結果、当時の名古屋は国内トップの時計産業集積地となった(参照:名古屋市図書館「名古屋の偉人伝」など)。
話を戻す。未来へ大きな夢を抱いた平野義三氏がたどり着いた答えが、そんな名古屋で時計店を持つことであった。
義三氏は1915年に、名古屋の中心地である栄に「平野時計舗」を開く。
「今でもときどき、懐中時計ケースに当時の店名を見付けて店まで持ってきてくださるお客様がおられることがあり、そのたびに感動しています」と、3代目にあたる明良氏、孝明氏は語る。
残念なことに、平野時計舗は第二次世界大戦の空襲で焼けてしまった。
戦後、義三氏は旧街道沿いの現在地へと店を移し、そして息子である2代目の平野晃行氏、次いで孫である明良氏、孝明氏へとバトンは渡されていった。
上の写真は、取材に訪れた際に筆者が撮った店内の一角だ。連載内でも書いたように、お店へは取材中も来客が絶えなかったため、店全体の写真は撮ることができなかった。
取材時間中たまたまだったのかもしれないが、この「途切れなさ」が、絶妙におひとりずつ、もしくは1組ずつとつながっていくのだ。旧街道沿いという落ち着いた環境が、明良氏、孝明氏が大切にしている顧客とのコミュニケーションの時間を程よくもたらしているような気がした。
上の写真は、連載内で紹介した、兄の明良氏が自身で最初に買ったテクノス「ノスタルジック」を分解して額に収めたものである。「お客様に機械構造をご説明差し上げるために自分で作った」という明良氏の言葉に、顧客目線に立つ姿勢と、そのような細部まで話を深められる顧客との関係性がうかがえた。
このオメガ「オメガ ルイ・ブラン デラックス パーペチュアル カレンダー」は、弟の孝明氏が、ヒラノへ入社するにあたり時計業界への転身の「覚悟の1本」として購入したもの。孝明氏はそれまでは地元のアパレル会社に勤めていたという。
「平野ブラザーズはとにかく仲が良い」というのが時計業界の定説であるが、もしかしたら明良氏は時計修理技能士として、孝明氏はファッション業界のスペシャリストとして、磨いてきたお互いの力を尊敬し合っていることがその仲の秘訣なのかもしれないと筆者は感じた。
取材時には穏やかだった店内が、時にものすごい熱を帯びることを感じさせるものを壁面に見つけた。上の写真は、この店を訪れた時計界の要人たちが書き残していったサインである。ヴィンセント・カラブレーゼ氏に、アントワーヌ プレジウソ氏、リシャール・ミル氏にフランク ミュラー氏、ピエール・クンツ氏にミシェル・パルミジャーニ氏などなど多くの名前が見られる。
店の一角には、ツァイトヴィンケルのショーケースもあった。
余談だが、ツァイトヴィンケルの創立者・ペーター・ニコラウス氏は、2年前にスイスで筆者と平野明良氏、孝明氏を引き合わせてくれた恩人でもある。
いろいろな時間の流れを感じる取材のひとときであった。