今、時計を着けるということ

2020.03.18

 こういう時代にあって、あえて時計を着ける意味を考えるようになりました。時計はなくてもいい、スマートウォッチで十分じゃないか、確かにその通り。スマートフォンの広まりと、それに続くスマートウォッチの普及により、時計はかつて備えていた社会性を失いつつあります。

 加えて、コロナウイルスの出現は、使える嗜好品としてどうにか命脈をつないでいた、時計の息の根を止めつつあります。人が自由に移動もできない状況下では、高価な嗜好品は不要不急な存在でしかありません。それでもなお時計には資産価値がある、という反論はあるでしょう。しかし、持ち運びできればこその価値であって、国境が閉ざされた状況では、今までほどの価値は持てないでしょう。

 では、時計を身にまとう意味はいよいよ失われてしまったのか。

 私たちひとりひとりは、再現性のない、つまりかけがえのない人生を歩んでいます。社会的立場、育った国、性別、あらゆるものは異なりますが、他人には真似できない点で、等しく同じです。そして私たちは、誰にも置き換えられないその生を、終焉に向かって歩んでいます。めいめいにしかできないやり方で。

 私たちはその歩みを「時」として認識します。デートの時間、食事の時間、打ち合わせの時間、子供と遊ぶ時間などなど。しかし、それらの時間は、必ずしも心ときめくものとは限らないようです。アインシュタインは「好きな女性と一緒にいたら時間は早く過ぎる」と語ったそうですが、残念ながら、再現性のない、かけがえのない人生は、楽しいこと続きとは限らないのです。

 私たちの人生は、他人には真似できないにもかかわらず、他の「何か」に左右されています。機嫌の悪い上司、予想もしない出費、ネットで見かけた陰口、たまたま見つかった疾病など。帝政ローマ時代のストア派は、そういったものへの無関心こそが幸せの源と主張し、「アパテイア」という概念を掲げました。英語で言う、アパシー、無関心の語源です。ですが、身の回りに無関心を決め込んで、充実して生を終えた人は、ほとんどいないのではないでしょうか。私たちは、好きか嫌いかはさておいて、他の「何か」との関わりの中で生きていくほかないし、ネットの普及により、ますますそうなりつつあります。

 私を左右する「何か」が変わらないのであれば、ローマ時代の哲学者よろしくアパテイアを決め込むか、自分が変わるかしかないでしょう。自分が変わる。つまりは、自分の歩みを、再現性のない、かけがえのない人生を、楽しいものにするよう心がける、ということです。

 それは、カバンに気に入った小説を潜ませることかもしれませんし、お気に入りのワンピースを着ることかもしれません。空手の道場に通うことかもしれませんし、インドの瞑想を学ぶことかもしれません。職場のデスクを好きな花で飾り立てることかもしれませんし、気に入った時計で、自分の生きている時間を確認することかもしれません。私を左右する「何か」の存在は年々大きくなっていますが、それに負けないよう振る舞うことが、何にもまして大切になったのではないでしょうか。

 かけがえなさを自覚するために、ものを買う必要はないでしょう。高価な時計を身にまとう必要もありません。でも、自分の好きな時計で、自分の生きている時間を確認すれば、自分の歩みを、時を楽しく感じられるかもしれません。重要なのは、自分の生を、時を、楽しいものにするよう心がけること。と思えば、時を確認する唯一のツールに、好きなものを選んでみるのは悪くないアイデアに思えます。

 例えば、会議中、上司のつまらない小言を聞くとしましょう。終わらないかと時間を確認するツールが、自分の大好きな時計だったらどうでしょうか。文字盤を見るたび、多少は、気が晴れるのではないでしょうか。あるいは、晴れがましい舞台に、とっておきの時計を着けて、時を確認してみる。その時計を見るたび、きっと、その素敵な時間を思い出せるはずです。時計の意義は、そんなものでしかありません。しかし、ないよりはずっといいでしょう。

 これは、時計業界に生きている筆者の希望でしかありません。ですが、私たちは、私を左右する「何か」に負けないよう、自分のかけがえなさを自覚する段階に来ているのではないでしょうか。つまりは、どんな形であれ、自分の歩みを、時を、楽しいものにするよう心がけること。

 もし、その手段のひとつに、素敵な時計を身に付けることを加えてもいいならば、試すだけの価値はあるでしょう。私の時は、私だけのもの。であればこそ、好きなもので、自分の生を確認するべきなのです。こういう時代だからこそ、なおさらでしょう。(広田雅将)