ジェラルド・ジェンタだけじゃない。名作を生み出したウォッチデザイナーたち

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2023.09.20

著名な時計デザイナーといえば、「ロイヤル オーク」や「ノーチラス」をデザインしたジェラルド・ジェンタだろう。しかし彼が活躍する以前から、時計デザイナーたちは存在する。今回は時計雑誌「ヨーロッパスター」のアーカイブをもとに時計デザインの黎明期に光を当て、名作を生み出したデザイナーたちを紹介する。

ジェラルド・ジェンタデザインお懐中時計

Originally published on EUROPA STAR
Text by Pierre-Yves Donzé, professor at the University of Osaka
[2023年9月20日公開記事]


変化する時計業界で名作を生み出したデザイナーたち

 オーデマ ピゲのアイコンである「ロイヤル オーク」のアニバーサリーは、ジェラルド・ジェンタを讃える機会となった。彼がデザインした時計たちだけでなく、最初の時計デザイナーとしての地位も讃えられた。ジェラルド・ジェンタが活躍するまで、時計デザイナーという職業はどちらかといえば日陰の存在であり、先達の多くは時計史に埋もれていた。

 ジェンタの成功が彼自身の才能の賜物であることは間違いないが、彼に才能を発揮する機会を与えた当時の時代背景も重視しなければならない。

ジェラルド・ジェンタ

©Archives Europa Star
1984年の展示会「Montres & Bijoux」で紹介された、ジェラルド・ジェンタの手掛けた時計に関する記事。

 スイスの時計産業は1960年代から70年代にかけて大きな変貌を遂げたが、それはクォーツ時計の登場によるものだけではなかった。ジュネーヴを中心に、マーケティング・プロジェクトに基づく新しいビジネスモデルが台頭したのである。

 ブランドとプロダクトは、この新しい潮流において中核となる存在だった。競争が激化する市場において、強いアイデンティティを持った時計を必要としていたのだ。そして、時計デザイナーがアイコニックなプロダクトを生み出すクリエイターとして登場する。

EUROPA STAR

©Archives Europa Star
1967年のヨーロッパスターで紹介されたジュエリーデザイン・コンペティションでの優勝者たち。ジャン-クロード・ギエやジェラルド・ジェンタらの名前を、ハンドバッグ・ウォッチなど独自の創作作品と共に見ることができる。

 第2次世界大戦まで、各時計メーカーは生産性と技術に注力していた。大切なのは時計のデザインではなく精度であり、そこにブランドの評判と他社との競争力がかかっていたのである。

 ケースに収められる前のムーブメントは、スイスから世界に向けて広く輸出されるようになった。1930年代では、時計輸出量の30%以上がムーブメントだったのだ。例えばオメガは、最初はムーブメントの名前であったが、やがてブランド名となり、会社名となった。この時代、時計のデザインは独立したケースメーカーやブレスレットメーカー、文字盤メーカーの仕事であった。

 時計メーカーによるデザイン業務の内製化は、アイコニックな商品や世界展開のブランドの新コレクション発表を機に1940年から50年代にかけて行われた。こういった時計の社内におけるデザイン制御は、視覚的なアイデンティティの創作にとって重要なものとなっていった。1945年のロレックス「デイトジャスト」、1948年のオメガ「シーマスター」、1957年のロンジン「フラッグシップ」などがその例である。

シーマスター

©Archives Europa Star
1951年のオメガ「シーマスター」の広告。

フラッグシップ

©Archives Europa Star
1967年のロンジン「フラッグシップ」の広告。

オメガのデザイン部門で活躍したルネ・ヴァンヴァルド

 オメガは、コレクションをデザインする専門部署(サービス・デ・クレアシオン)を設立した最初の企業のひとつである。1940年に設立されたこの部門は、パテック フィリップでキャリアをスタートさせた若きデザイナー、ルネ・ヴァンヴァルドの手に委ねられた。彼は、シーマスターや「コンステレーション」を含むいくつかのコレクションの発表を統括している。

 1955年、ヴァンヴァルドはオメガを離れ、1924年にラ・ショー・ド・フォンで創業した家族経営の時計工房を引き継ぐ。コルムと改名したこの会社は、革新的なデザインの時計を発表したことで大きな成功を収める。1955年の段階で社員はわずか5名だったが、1990年にはその数を90名にまで増やした。コルムの時計で最も有名なのが「ゴールデンブリッジ」であることは、言うまでもない。

©Archives Europa Star
1963年のヨーロッパスターに掲載された、コルム創業者、ルネ・ヴァンヴァルドのインタビュー。1915年生まれの彼は、1933年にパテック フィリップでキャリアをスタートさせ、1940年からはオメガのデザイン部門で活躍した。

ゴールデンブリッジ

©Archives Europa Star
革命的なデザインとムーブメントを搭載した腕時計としてコルムのゴールデンブリッジを紹介する、1979年のヨーロッパスター。

パテック フィリップのジュエリーウォッチを手がけたジルベール・アルベール

 オメガのように、他の時計メーカーもデザイン部門を設立してデザイナーを採用した。こうして、1955年にパテック フィリップは新作のデザインをジルベール・アルベールに依頼したのである。

 ジルベール・アルベールは特にジュエリーウォッチの製作において重要な役割を果たした。1962年にパテック フィリップを離れるとジュネーブでジュエリーデザイナーとして独立し、すぐに世界的なデザイナーとなった。

ジルベール・アルベール

©Archives Europa Star
ジルベール・アルベールがジュネーヴのデザイン賞をパテック フィリップと共に受賞したことを伝える記事。

ジルベール・アルベール

©Archives Europa Star
時計製造とジュエリー製造の両方に精通するジルベール・アルベールは、ダイヤモンド・インターナショナル・アワードも受賞している。

ジルベール・アルベール

©Archives Europa Star
ジルベール・アルベールはパテック フィリップを離れた後、自らのブランドを設立した。写真は1982年の広告。

同時期に活躍したラウル・ハース、ジャン-クロード・ギエ、アンリ・デュパスキエ

 同様に、ユニバーサル・ジュネーブも1960年代初頭にラウル・ハースを採用し、デザイン部門を統括させた。彼はジュエリーを専門とするデザイナーでもあり、パテック フィリップ、そしてブローバのスイス子会社で働くことになる。

 ピアジェがジュエリーウォッチ市場へ参入する際には、ポンティ・ゲナリ(P&G)で仕事をしていたジャン-クロード・ギエと組んだ。彼は1967年にピアジェがP&Gを買収した際に、デザイン部門の担当者となったのである。

 ヌーシャテルを拠点とする時計メーカー、アーネスト・ボレルでは、アンリ・デュパスキエを採用する。1960年代には非常に強い視覚的アイデンティティをもったモデルを作り出し、ライバルブランドとの差別化を図った。

ラウル・ハース

©Archives Europa Star
1963年、当時ユニバーサル・ジュネーブのデザイン部門のディレクターであったラウル・ハースのインタビュー。

アンリ・デュパスキエ

©Archives Europa Star
1965年にヨーロッパスターへ掲載された、アーネスト・ボレルのデザイナー、アンリ・デュパスキエの記事。

ジャン-クロード・ギエ

©Archives Europa Star
ジャン-クロード・ギエはピアジェのデザインにおける重要な立役者だ。誌面に掲載されているのは、1969年のダイヤモンドセッティングを施した腕時計である。

 時計のデザイン史について書かれた著作はまだないが、ヨーロッパスターのアーカイブによって、時計ブランドの特別なコレクションの重要性、ジュエリーウォッチの創作、そして修練の場としてのジュネーブ美術工芸学校の存在など、いくつかの事実を確認することができる。


ウォッチデザイン100年史【1970年代〜1990年代】

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