クロノセオリー東京の時計師である飯塚雄太郎氏が、実際の作業を通じて時計修理・メンテナンスの重要性を伝える。今回取り上げるのは、カルティエ「タンク マスト」だ。非防水時計ならではのウィークポイントと修理のポイント、そして非防水時計との付き合い方を記載していく。
一連の作業工程をまとめた動画はこちら↓
まわれ歯車:動画・写真
Movie & Photographs by Maware Haguruma
2023年12月12日掲載記事
非防水時計におけるメンテナンスの重要性
今回、修理の依頼が来たのはカルティエ「タンク マスト」、非防水時計。防水構造を持たない時計は、夏の間や雨の時期に使用を控えるだけでなく、意識して欲しいことがある。
というのも非防水時計というのはパッキンが使用されておらず、気密性があまりない。そのため、時計を置いているだけで内部空気の一部に循環が起こる。つまり、時計は“呼吸”をするのである。
時計の装着をしていなかったとしても、気温が上下すること、時計内部の温度がわずかながら上下し、内部空気の膨張・収縮を引き起こす。それに伴い、空気が出たり入ったりするのだ。
また、時計に風が強く当たって、内部に空気が侵入することもある。どちらも、空気の侵入量はごくわずかだが、この際にホコリなどの小さなゴミや湿気が時計に入ってしまう。
ゴミや湿気の侵入が時計にどんな影響を及ぼすのか。イメージしやすいところから言えば、湿気が侵入しパーツに付着・乾燥することで、鉄パーツは錆る。時計に鉄パーツは実はかなり多く使用されているため、錆は大敵だ。錆は一定レベルまで進行するとパーツを交換しなければならなくなる。もちろん、交換パーツが入手できない時は製作するしかない。その場合、当然、メンテナンス料金もその分上乗せされる。
四季のある日本では、湿度の上下も激しいため、錆のリスクはイメージしやすいのではないだろうか。特に外気に触れやすい巻き真は錆が発生しやすく、進行するともろくなり折れ、リュウズが取れてしまうこともある。そのため交換が必要になる場合が多い(巻き真とは、リュウズからムーブメントに伸びる真のことで、時計の巻き上げ、時刻合わせには必須なパーツのひとつである)。
また、混入したホコリ・ゴミは不具合の温床と言っていい。時計のテンプ(最も忙しく運動する時計の心臓部)にゴミが落ち、テンプの動きに影響を与えてしまうことも考えられるからだ。つまりは、精度に変化を及ぼす。非防水時計のスペック欄で、公称精度に幅を持たせるのはこういった事情も理由のひとつかと思う。
何より厄介なのは、時計師が丁寧かつ繊細に施した油にゴミが吸着してしまうことだろう。それが蓄積すれば当然時計の動きを止めるような抵抗になり、調子が悪くなる。さらに、そのゴミを伝って油が流れ、ムーブメントが油でコーティングされたような状態になり、若干ブリッジの色味が変化してしまう(ただし、原因が油ならば洗浄により改善できる)。
とはいえ、ホコリ・を完全に防ぐことは不可能だろう。これらの理由から、非防水時計を愛用する場合には、防水時計以上に定期的なメンテナンスを考慮していただきたい。少なくとも、かかりつけの時計屋さんでムーブメントの状態を定期的に見てもらうだけでも、将来的にかかるメンテナンス費用が大きく違ってくるのではないか。
今回のタンク マストも、湿度の高い夏の間は使用を控えるので、このタイミングでメンテナンスをして欲しいと預けられたものだ。
中身を開ける前に、巻き上げ、針回しのチェックを行ったが、特段嫌な感触もなく状態異常は感じられない(リュウズが小さめで手に伝わりにくかったこともあるかと思う)。依頼主からの情報でも2針時計ということもあり、精度の異常も感じていないとのことだった。唯一気になるとすれば、紫色に変化した金色のケースの変色。中身を開けずに、もしくは精度測定器を使わずに分かることは、この程度であった。
預かり後、測定機にかけると、調子がかなり悪いことがすぐに判明した。精度は1日に3分程の遅れのペース(歩度)で、テンプの動きも悪いようだ。秒針付きの時計であれば、目視による1日あたりのズレ(日差)で精度の異常は感じやすいのだが、2針時計だと特に発見しにくい。
こういった2針時計の機械の異常に中身を開けずに唯一気付ける症状があるとしたら、パワーリザーブが短くなっている場合かもしれない。しかし、24時間以内に止まるなど極端な例でもない限り、異常は見つけにくいだろう。
非防水で2針時計の場合、特に異変が感じ取りにくいため、時計に異常を感じて時計屋さんに持ち込むと判断したときには、すでにパーツ交換が必要なレベルまで症状が進んでいると考えた方がいいかもしれない。
オーバーホール前の状態チェック
作業に取り掛かる前に、専用のドライバーを作成する。今回預かったカルティエの外装ネジは潰れて(なめて)おらず、綺麗な状態で、柔らかい材質(金無垢)だったため、いつもよりドライバーには気を張った。ドライバー製作のコツは、ネジと一体になれるような感覚を持てるドライバーを作ることだ。
ドライバーが出来上がったら、早速中身を開ける。真っ先に目に入ってきたのは冒頭で触れた、巻き真の錆である。この状態だと錆を落としきっても、使えるかどうか……。今回は結果的に交換することになった。
ムーブメント内にはゴミがかなり混入している様子だ。歯車の歯先、上部など各所に見られ、全体的にムーブメントが薄く油で覆われているといった感じだ。ゴミを含んだ油は劣化も早い。もはや潤滑ではなく、抵抗となって存在している。
穴石と言われる、歯車の軸を支えるルビーをひとつひとつ擦り、手による下洗い洗浄をしていく。ここで気を抜くと、しつこい汚れが落ち切らず、のちに錆などの不具合につながりかねない。
ヒゲゼンマイに錆が出ていなかったのは幸いである。時計が時計であるために存在するパーツ、ヒゲゼンマイへの錆は時計にとって致命的なダメージだ。というのも酸化(=錆)すると、精度は進みがちになるだろうから、交換せざるを得なくなる。しかし、ヒゲゼンマイを単体で入手することはできないため、テンプ一式の交換となり、費用が嵩むことになる。筆者自身でヒゲゼンマイの錆落とし作業が可能になればいいのだが……。
時計師が思わず感動したタンク マストの設計
筆者が作業をしていくにあたり、これは、と感じたところを紹介したい。それはカルティエの裏蓋である。
一般的に裏蓋は、ムーブメントをケースに閉じ込める、という役割を持つのみだ。しかし、この時計の場合、役割がもうひとつ与えられている。それはムーブメントの固定である。
通常、ムーブメントはカレンダーの早送りや時刻合わせなどでリュウズを押し引きをしたときに動いてしまわぬよう、ケース内部で固定されている。この固定に多くの現行品では中枠と言われる、ケースとムーブメントの隙間を埋めるパーツが用いられる。ちょうど段ボールの中で、商品が衝撃を受けないように固定に使われる梱包材のようなものだ。これはもはや時計業界では、常識と言えるくらい一般的に使用されているかと思う。
しかし、このカルティエは中枠を使用していない。裏蓋に中枠の機能を持たせるために、わざわざムーブメントぴったりのサイズにくり抜いて、ムーブメントがカタカタと動かないように設計されているのである。
つまり、先の例でいえば、商品の形ぴったりに段ボールを作りましたというようなものだ。かなり手間がかかっていることは想像に容易い。中枠を使う方がコストもかからず、製造も楽であろう。それをあえて行うことに感動する……カッコいい。
確かに素晴らしいのだが、これからメンテナンスを始めようとする人間にとっては、ただただ、これに感動している場合ではない。裏蓋にぴったりとはまったムーブメントを取り出すのは一苦労である。ダイアルと裏蓋の間に柔らかい木の工具を差し込み、じわじわゆっくり取り出していく必要がある。無理をするとダイアルは割れてしまうなど、破損する恐れがある。
加えて今回は巻き真の交換を行う。
交換のために購入した巻き真というのは当然、最初から対象の時計とぴったりの長さでなく、時計に合わせて長さを調整できるよう、長めになっている。つまり、このままケースにムーブメントを入れると、3時位置のリュウズがケースから飛び出しすぎている状態になる。
そのため、ケースとリュウズの間隔を見て、どの程度調整が必要かを判断したら、ムーブメントから巻き真(リュウズ)を取り出し、必要な分カットし、再度ムーブメントに取り付け、さらに調整が必要ないか判断するためケースに入れ、確認。だめなら再度ムーブメントから巻き真を取り出し……と適切な長さになるまで作業を繰り返す。慣れるとそんなに時間はかからないが、このカルティエはそうはいかない。
ムーブメントから巻き真を取り出すには、ピッタリとハマったムーブメントを裏蓋から、ダイアルにダメージがないように慎重に取り出す必要がある。巻き真の長さの確認とカットをするたびに、この息の止まるような作業を繰り返さなければならないのだ……。
ヒゲゼンマイの調整は精度に直結する
ヒゲゼンマイは時計の精度を決める、“時計が時計である”重要な要素だ。そんな役割を持つパーツは最も慎重に、そしてストレスなく振舞えるように修正を施す必要がある。ヒゲゼンマイの修正方法は各技術者によって異なると思うが、結果はおおよそ同じはずだ。
しかし、ヒゲゼンマイが今どんな状態であるかを確認する術も技術者によってさまざまであると思う。私は、大先輩たるYouTubeチャンネル「休屋6号店」さんの記録した動画を参考にした。これによりヒゲゼンマイ修正クォリティーはアップすること間違いなしである。
簡単に方法を紹介すると、天真(テンプの軸)がどの位置にあるかを確認することで、ヒゲゼンマイとテンプの具合の良さを見ているのである。ヒゲゼンマイ修正前後を見ていただきたい。修正前の画像(上)は確認しづらいのだが、天真が画像下に、ヒゲゼンマイの偏りによって押し付けられていることが分かる。これを修正すると天真はどこにも当たらず、テンプの回転運動にストレスがかかりにくくなるのである。
たったのこれだけだが、効果は抜群である。このような修正をしなくても、精度は出ることもあるし、時計は問題なく稼働するだろうが、時計にとってストレスを極力なくすことは、油の管理や徹底した洗浄と同じように大事なことだと考え、修理品にはすべて施している。
結果的に、今回の時計の調子は非常に良く、全巻時の姿勢差、つまり姿勢の違いから生まれる精度の誤差は5秒もなくなった。
姿勢というのは文字盤が上、下を向くふたつの姿勢、そしてダイアルが地面と垂直のまま、リュウズが上下左右の4つの姿勢の計6つの姿勢のことである。機械式時計は普通、この6つの姿勢で精度(テンプ・歯車の動きやすさが異なるため)に差が出る。これが少なければ少ないほど精密な時計であるといえる。
つまり今回のカルティエは非常に優秀である。一般に姿勢差15秒から25秒の差は許容範囲であると思う。
非防水時計との付き合い方を考える
非防水時計は現行の防水時計と比べるとメンテナンスにより一層気を遣うだろう。だからこそ、愛着が湧くというのもあるが、あまりにもメンテナンス頻度が高いとそれはそれでつらいものがある。
上で述べたように、キーワードは錆と呼吸(ゴミの混入)。時計内部に入り込む空気は、使用する以上、防ぐことは困難であるから、最も気を付けるべきは錆となる。
一般的な方法ではあるが、錆を少しでも防ぐためには、気温が高く湿度の高い時期に使用することを控え、ゴミの混入も含めて、定期的に時計屋さんに状態確認をしてもらうことが良いだろう。
これに加えて私がおすすめしたいのは写真を撮ること(撮ってもらうこと)である。非防水時計をお店で購入した場合、おそらくメンテナンスされた個体であることが多いと思う。購入時のムーブメントの状態を、できるだけブリッジ表面にピントのあった写真で収めておくと良い(写真を撮ってくれる業者さんは増えていると思う)。
しばらく使用したら、かかりつけの時計屋さんの定期点検の際に、再度写真を撮ってもらおう。錆やゴミがあればすぐに分かるので、ユーザー自身もメンテナンスの必要性を感じられるはずだ。
では“定期的”とはなにかも考えてみよう。錆は使用の仕方・頻度によるところもあれば、時計のケース構造にも、汗が混入している可能性があるとしたら人によるところもあるので、具体的な期間を伝えることは難しい。
したがって、ユーザー自身で最適なメンテナンス周期を発見することが求められる。そこで購入してから、まずは1年後に点検にいき、写真を撮ってもらう。その時、綺麗であるならば、これまでの1年間の扱い方を継続すれば良い。錆が見られるならば時計屋と相談できるはずだ。使用方法の問題か保管環境か、時計構造による不可避な問題かなど。
1年目は綺麗に使用できたが、2年目にサビやゴミが多く見られたのなら、今後その時計のメンテナンスを検討するのは2年ごと、と考えることもできる。
これは単なる例だが、実際はもう少しメンテナンスまでの期間は長いかとは思う。
また、防湿庫のような湿度や温度が上下しにくい場所に保管しており、夏の使用は避け、冬の間も月に3~4回程度と使用頻度が少ないのであれば、時計屋さんでの点検はもう少し期間を開けても良いかと思う。最初は2年程度で点検に出し、問題なさそうであれば、もっと点検までの期間を長くすると良いと思う。
非防水であった時代の時計はどれも美しい。もちろん現代の時計も綺麗なのだが、手作業が感じられたり、現行品では施さない個所にも装飾していることもある。かつての職人の魂がより感じやすいものかもしれない。現代の時計師も、うなるほどだ。そんな時計に惚れたのならば、点検だけはぜひとも意識してほしいと思う。
著者のプロフィール
飯塚雄太郎
クロノセオリー在職の時計師。ヒコ・みづのジュエリーカレッジ在学中、2018年の「ウォルター・ランゲ・ウォッチメイキング・エクセレンス・アワード」に参加。ランゲ&ゾーネからの課題は「音を使った通知機能を持つ時計製作」。そこでバイメタルを使用した温度計を製作し、ある温度以上になると音で知らせる機能を持たせた。ゴングには香川県で採取でき、石琴に使われるサヌカイトを使用した。製作した時計は入賞。卒業後、修理会社を経て現職。X(Twitter)アカウントは「@khronos_」。ゾンビマスター。
オーバーホール動画の完成版はこちら!
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