ヤーゲンセンスタイルに魅せられた、スイス在住の日本人時計師・関口陽介

2023.12.11

時計学校に通うことなく、独学で時計技術を習得したという、ル・ロックルの日本人時計師・関口陽介。長年勤めてきたラ・ショー・ド・フォンの時計店を辞し、2020年からは本格的な作家活動に専念してきた。ようやく完成した腕時計「プリムヴェール」のプロトタイプには、古のヤーゲンセンスタイルに私淑した、関口ならではの感性と美意識が凝縮されている。

プリムヴェール

プリムヴェール
所有するユール・ヤーゲンセンの小径ムーブメントを参考に、腕時計用に再設計されたモデル。随所に関口ならではの美意識が垣間見られる秀作。写真はプロトタイプで、リュウズは暫定仕様。他にSSケースも予定されている。手巻き(Cal.YS-Y01)。21石。1万8000振動/時。パワーリザーブ約40時間。18KRG(直径39.5mm、厚さ12mm)。3気圧防水。予価770万円(税込み)。
星武志、三田村優:写真 Photographs by Takeshi Hoshi (estrellas), Yu Mitamura
鈴木裕之:取材・文 Text by Hiroyuki Suzuki
[クロノス日本版 2022年3月号掲載記事]


ヤーゲンセンに私淑したル・ロックルの日本人

関口陽介

関口陽介
大学卒業後に単身スイスに渡り、2007年に独学でフランスの時計師資格を取得。ラ・ジュー・ペレを経て、10年にクリストフ・クラーレに入社。20年から正式に作家活動を開始する。

 時計製造業の都市計画として世界遺産にも登録されているヌーシャテル州のル・ロックルに住む日本人時計師・関口陽介。筆者が関口と初めて話したのは、彼がまだクリストフ・クラーレに籍を置いていた2014年。デテント脱進機と定力装置を搭載した「マエストーゾ」のプロトタイピストとして、開発と製造に携わっていた時期だ。自分はせっかちだから、頭で考えるより先に手を動かしてしまうと語っていたが、落ち着いた物腰と非常に理知的な語り口、そして目の高さを固定するためワークベンチに前歯を当てる独特な作業スタイルが印象的な好青年だった。

 この当時から関口は、クラーレに在籍しながら自身の懐中トゥールビヨンを手掛け始めており、その作家活動は社内でも公認されていたという。ただし、これには「腕時計は作らない」という条件が付けられていた。

懐中トゥールビヨン

クリストフ・クラーレ在籍中の2015年に、関口が完成させた懐中トゥールビヨン。手許にあったテンプを基準にキャリッジを製作し、図面なしでムービングプロトタイプまで漕ぎ着けている。

 自身の懐中トゥールビヨンを完成させた関口は、16年10月にクリストフ・クラーレを辞し、11年3月から並行して働いていたラ・ショー・ド・フォンの時計店、ジュヴァルの専属時計師としてアンティークの修理などを手掛けていると聞いていた。そのジュヴァルも19年12月で退社し、20年1月からは正式に、個人作家としての活動に専念。その成果となる最初の腕時計「プリムヴェール」のプロトタイプが届けられた。

 ケースバックから覗くムーブメントの造形を見れば一目瞭然だが、その様式は関口が住むル・ロックル流。もっと言えば古のヤーゲンセンスタイルに範を取っている。これは創業初期のジャガー・ルクルトが供給していたエボーシュのベースにもなった様式で、その源流であるユール・ヤーゲンセンの工房はル・ロックルにあった。直接的なモチーフとなったのは、関口が所有する1871年製の「No.12096」で、当時としては小径の懐中ムーブメントだった。

 なぜ関口はヤーゲンセンスタイルに魅せられたのか? ひと言で要約すれば、それは「儚さと力強さの調和」となるようだ。

「例えばジュネーブ様式の時計は、洗練されていてとても美しいのですが、私には誇り高すぎて、現実離れしているように感じてしまうのです。一方、ヤーゲンセンの様式は、その奥に感じる良い意味での無骨さ、飾り気のない信念にホッとしてしまうのです。巨大なテンプに対して、繊細なアンクルやガンギ車の凜とした佇まい。そうしたギャップのある調和が私には魅力なのです」

 関口はそのバランス感覚をオーケストラに喩えて説明する。重厚な低音に支えられた中でこそ輝く、ソロバイオリンが奏でる高音の美しさ。ジュネーブ様式の時計は、低音部にあたる縁の下の力持ちまでがキラキラしていて、全員の自己主張が強すぎるのだと言う。果たして、完成したプリムヴェールのプロトタイプには、そんな関口の美意識が存分に込められているようだ。

 もちろん19世紀に作られた小径の懐中ムーブメントを、現代の腕時計に仕立て直すにあたって、関口は慎重なアップデートを加えている。古式ゆかしい吊り香箱は、現代的な上下受けに変更。加えて軸と一体成形された角穴車はネジ留め式に改められた。関口のNo.12096は、針合わせがダボ押しに変更されているが(原型は1867年にユール・ヤーゲンセンが特許を取得したボウセッティング)、これもラ・ショー・ド・フォンのスクールウォッチを参考にしたリュウズ合わせに変更。ここに線バネを一切使わないことも特色だ。その他、針合わせ時の規制方法を現代風の筒カナにしたり、2番受けには暫定的にシャトンが追加されていたり、バイメタルのチラネジテンプをより大径に改めたりと、基礎的な改良点は枚挙に遑がない。

 一方、仕上げに目を向けてみると、表面に極めて緩やかなアールが加えられた受けは、面取りが曲面ではなく、45度の平面で仕上げられている。コハゼの形状は、さらに後年のジャック・アルフレッド・ヤーゲンセンを参考に、バネ部分の円形を強調した造形に改められた。このあたりは関口ならではの審美性、というよりも造形の好みがストレートに反映された部分と言えるだろう。

 現状のプロトタイプでも十分以上の完成度を持つプリムヴェールだが、関口によると製品版ではさらなる改良が盛り込まれるらしい。緩急針に目盛りを加え、耐震装置を追加。受けには関口の銘がエングレーブされるという。プロトタイプのエナメルダイアルは、名窯ドンツェ・カドラン製のトップグレードで、表面の揺らぎが恐ろしく少ないが、これも製品版ではカドラモン(ラ・ショー・ド・フォンにある小規模なダイアルサプライヤー)製の導入も検討しているようだ。しかし導入決定は仕上がりを見てからとのことで、関口のことだから決して品質に妥協することはないだろう。

 もっとも関口にも迷いはあるようで、製品版には(記号的な高級感を演出しやすい、または高級だと広く認識されている)コート・ド・ジュネーブ仕上げの導入も検討しているようだが、個人的には採用に反対だ。コート・ド・ジュネーブで受けの表面をさらえば、プロトタイプの微妙なアールは失われてしまうだろうし、何よりここまで徹底的にこだわり抜いたル・ロックル流の様式美を捨て去るのは惜しい。年産予定数は10本程度で、販売の窓口はラ・ショー・ド・フォンのジュヴァルと日本の小柳時計店のみ。ならば、この様式美を本当に理解する好事家の感性にさえ響けばそれで良いではないか。いかがでしょう、関口さん?



Contact info: 小柳時計店 Tel.0744-22-3853


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