『クロノス日本版』の2023年9月号(第108号)で、簡単にストラップを交換できるインターチェンジャブルストラップを特集した。その先駆者が、フランスのカミーユ・フォルネとその合弁会社であるカミーユ・フォルネ ジャポンだ。記事を掲載したところ、事実関係が異なるとメッセージをいただいた。インターチェンジャブルストラップの先駆けである「アビエ式ストラップ」だけでなく、ストラップの在り方を大きく変えたカミーユ・フォルネ ジャポン。その歩みを、改めて〝レジェンド〟である磯貝兄弟にうかがった。
アンティークウォッチディーラーの先駆者「シェルマン」と「カミーユ・フォルネ」の邂逅
今や多くのウォッチメーカーが採用するようになった、工具を使用することなく交換可能なインターチェンジャブルストラップ。先駆けとなったのは、フランスのカミーユ・フォルネだ。しかし、さらに言うと、そもそもこの企画を提案したのは、カミーユ・フォルネの日本法人であるカミーユ・フォルネ ジャポンだった。同社を起こしたのは、アンティークウォッチディーラーの先駆者にして、名店中の名店と謳われるシェルマンである。
1971年に創業したシェルマンは、当初、アンティーク(骨董品)を幅広く扱っていた。しかし、だんだん時計にフォーカスするようになり、やがてパテック フィリップを筆頭とする高級時計をメインで扱うようになった。当初は、どこにでもあるありきたりのストラップを付けて腕時計を販売していた、と創業者の磯貝建文氏は語る。しかし、それぞれの腕時計にふさわしいストラップがないうえ、ワシントン条約(1973年3月3日にワシントンD.C.で採択され、1975年7月1日に発効)により、アリゲーターやリザードなどのストラップを付けた状態で、腕時計を輸入することが不可能になったという。
「イギリスのウォッチギャラリーで技術者をしていた友人に、クォリティの高い腕時計ストラップはないかと聞いたところ、紹介されたのがカミーユ・フォルネでした。今から35~36年前かな?」(建文氏)
弟の磯貝吉秀氏もこう語る。彼は1980年に、兄の建文氏の起こしたシェルマンに入社し、二人三脚でシェルマンを世界屈指のアンティークウォッチディーラーに育てた人物だ。
「それこそ昔のストラップって、町の時計屋さんで、ホコリをかぶったようなプラスティックの箱に入っていて、定価の半額で買うようなものでしたよね。ワニ革って書いてあるのにすぐに剥がれるような感じのね。ちょうどその頃に、ワシントン条約ができたんです」(吉秀氏)
もっとも、僕らのストラップに対する意識はゼロに近かった、と吉秀氏は補足する。
「昔は海外で買ったアンティークウォッチを、そのままストラップが付いた状態で売っていました。あまりボロボロだと予備のストラップを買って向こうで付け替えたりしていたこともありましたね。でも、ストラップがボロボロでも、コレがオリジナルだからありがたい、という時代でしたね。ところがワシントン条約により、ストラップを付けたままの状態で腕時計を日本に持って来られなくなりました」
吉秀氏の話は、日本におけるアンティークウォッチ市場の黎明期ならではだ。
「かつて作られた古い時計に付いているストラップと動物保護と、どう関係があるのかと思ってしまいますよね。アンティークウォッチを仕入れて帰る前日は、一晩中ずっとストラップを取り外す作業をやっていました。でも、やはりもったいないと思い、その中でもコンディションの良いストラップは持って帰るようにしていました。しかし、こんな状況ではどうにもならないと思い、どこか良いストラップメーカーはないかと探すようになりました」。彼が、スイスで毎年開催されていた時計見本市のバーゼル・フェアで見つけたのが、カミーユ・フォルネだった。
「いろんなストラップを見ましたが、その中で一番きれいだったのがカミーユ・フォルネでした。ところが、メーカーであるカミーユ・フォルネ社は、一小売店とは取引しないと言うんですね」(吉秀氏)
兄の建文氏が補足する。
「弟(吉秀氏)がバーゼル・フェアで見つけたストラップメーカーと、僕がイギリスの友人から聞いた一番優秀なストラップメーカーが、同じカミーユ・フォルネでした」
「兄貴が買ったのが先でしたね。こんなきれいなストラップがあるのだと思い、バーゼル・フェアに行ったところ、カミーユ・フォルネを見つけました。サンプルとしてストラップを買ってみて、これは兄貴の言っていたストラップメーカーと同じじゃないのか、となったのです」(吉秀氏)
兄弟の一致により、シェルマンはカミーユ・フォルネを扱うことになった、という。
「カミーユ・フォルネの社長に、日本の代理店をやらないかと言われたのが、そもそもの始まりです。1990年のことかな。当時、バーゼル・フェアは4月開催でした。その年の8月、カミーユ・フォルネのインターナショナルマネージャーが来日し、そこで代理店契約が決まりました」(建文氏)
面白いのは、その後の経緯だ。
「インターナショナルマネージャーはイタリア人でしたね。僕がイタリアにある彼のウチに遊びに行った折に、一緒に合弁会社をつくらないかと誘われたのです」(建文氏)。代理店を始めたばかりなのに、合弁会社設立を持ちかけるのは早急だろう。
「すでにカミーユ・フォルネは、イタリアで合弁会社を運営していました。時期尚早でしょうと話していた際に、代理店と合弁会社は根本的に違うと、インターナショナルマネージャーに説明されました。代理店というのは、何もないところに種をまいて、これから花が咲きそうな時に、より良い好条件を出した他社に持って行かれてしまうこともある存在なのに対し、合弁会社を設立してしまえば、利益の半分は本社のものになるかもしれないが、そういった心配は起きないと説明されたのです」(建文氏)。
ピン付きバネ棒のインターチェンジャブルストラップ「アビエシステム」が生まれるまで
1991年にカミーユ・フォルネの代理店だったシェルマンは、1992年に本社との合弁会社で、カミーユ・フォルネ ジャポンを設立したが、創業当初は大変だったと建文氏は語る。
「日本の夏は暑いでしょう? ストラップのみを扱っていたため、(レザーストラップが適さない)夏をどうやって乗り切るのかが一番の問題でした。そして、もうひとつの問題が色でした」
「あの当時のカミーユ・フォルネは、腕時計ストラップ業界で先駆者的な立場であることをアピールしていました。初めてストラップの世界にカラー化を持ち込んだのはカミーユ・フォルネでしたし、腕時計を装着するための一備品でしかなかったストラップを単体の製品の地位まで持ち上げたのもカミーユ・フォルネである、と」(建文氏)
合弁会社設立後、間もなく、日本橋の三越でストラップのイベントを開催し、さまざまな色のストラップを並べて展開したものの、必ずしも売り上げは芳しいものではなかったという。
「なぜならお客様は、さまざまなカラーの腕時計ストラップに魅了されるのですが、結局、黒か茶色の無難な色を選んでしまう」(建文氏)。そうした問題をクリアし、カラー化を普及させるにはワンタッチで交換できるシステムが不可欠と感じた建文氏は、簡単に交換できるストラップの開発を急いだ。それが工具なしで交換可能なアビエ式の始まりだった。
「自分が店頭に立っていたからこそお客様の反応が理解できたし、もし自分で簡単にストラップを交換できれば、ひとつの腕時計本体(ヘッド)に対して、何色もストラップを買ってもらえるのではないかと思ったのです」(建文氏)
建文氏は、日本のYKKなどにアイデアを提案したものの、出来上がったものは芳しくなかったという。
「面ファスナーは簡単だけど、ストラップが厚くなってしまい、実用には向かなかった。そこでカミーユ・フォルネ フランスの工場長に相談しました。彼が提案してくれたのが、今のアビエ式の原型でした」(建文氏)
「1930年代から40年代のパテック フィリップは、ラグにバネ棒を取り外すための穴が開いていないモデルのために、バネ棒にピンを取り付けた特殊な製品を使っていました」(建文氏)
そのバネ棒にヒントを得て試行錯誤の末、建文氏はピンをスライドさせてストラップを取り外せる仕組みを完成させたのだ。
「ピンの突起を大きくすると、着けたときに手に当たる。また、ピンのバネ棒へのロウ付けが弱いと、すぐに取れてしまうなどの問題があり、実現には苦労しました。最終的に満足できる形になったのは、発案から3年ぐらいたった後じゃないでしょうか」(建文氏)
苦心の末に完成した、簡単にストラップを交換できる「アビエシステム」。今のインターチェンジャブルストラップの先駆けは、日本のカミーユ・フォルネが作り上げたものだったのである。しかし、本当の困難は完成した後にあった。
(後編に続く)
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