時計蒐集の目的や楽しみ方は人それぞれだ。知的探求の対象として腕時計に情熱を注ぐようになったF.H.さんは、やがて積み上げた見識を家族に使うようになる。彼らに祝い事が訪れるたび、その瞬間を飾るにふさわしい腕時計を贈ってきた。時計とともに絆を深めてきたFさん一家。やがて大人になった息子が初めて自分に選んだのは、若き日の父が選んだものと同じ腕時計だった。Fさんを8年ぶりに訪ね、そのコレクションが映す豊かな家族の歩みをたどった。
関西在住の開業医。時計蒐集歴は30年近い。子供時代にストップウォッチを触っていた経験からクロノグラフを中心に嗜むようになる。初めて手に入れた腕時計は「パシャ 38mm クロノグラフ」。時計は広範な知識から選び抜き、大切に迎える。「新品で手に入れる。そして絶対に手放さない」というポリシーを貫いている。
Photographs by Takafumi Okuda
髙井智世:取材・文
Text by Tomoyo Takai
Edited by Yukiya Suzuki (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2023年3月号掲載記事]
「時計を買うタイミングは人生の節目。だから手放すことはありません」
「時計は思い出のために買うものであり、そして思い出とは残していくものでしょう」。『クロノス日本版』2015年3月号(第57号)の本特集において、自身の時計哲学をこう述べた人物が、F.H.さんだ。時計に対して広範な知識を持ち、時計愛好家の鑑のような思想を持つFさんは、本誌編集長と旧知の仲でもある。8年の時を経て、〝その後〞を追わせていただく機会を得た。
Fさんは父親の開業した医院を継ぐ医師である。その立ち上げから携わり、経営を軌道に乗せた頃から腕時計を愛好するようになった。やがて知力と財力を投じ、クロノグラフを中心とした良質なコレクションを築き上げていく。蓄積された見識は家族のためにも用いられ、節目ごとにふさわしい腕時計を贈り、家族の歴史に花を添えてきた。典型的な〝ドクターズクロノ〞のデザインを備えたA.ランゲ&ゾーネの「1815 クロノグラフ」と、パテック フィリップの「クロノグラフ Ref. 5170」はその象徴だ。父親の傘寿を祝して前者は父へ贈り、後者は自身のものとした。これらはいずれ、当時医学生だったふたりの息子へ託す夢もある。
思いありきで時計を集めてきたFさん。「買った時計は絶対に手放さない」と言い切るスタンスは一貫して変わらない。だからFさんのポートフォリオを見れば、時計人生をそのままたどることができる。
働き盛りの30代後半、カルティエから腕時計の世界へ入り始めたFさんを、さらなる深みへと誘ったのはパネライだった。2000年発表の、まだエル・プリメロを載せていた「ルミノール クロノ」に心を奪われたのである。しかしようやく取れた予約は約1年半も先のものだった。その時間が当時のFさんにどれほど長く感じられたかは察するに余りある。別のパネライで心を落ち着かせようと考えたFさんが手に入れたのは、「ルミノール マリーナ ミリターレ アメリゴ・ヴェスプッチ」だった。今やコレクターズアイテムとなった稀少モデルである。この2本の選択は、Fさんが当初からいかに鑑識眼を持ち合わせていたかを裏付けるものだろう。しかしFさんはこう話す。
「この時期に最も時計雑誌を購入して読みふけり、その結果、腕時計の魅力にとらわれ、底なし沼から抜け出せなくなってしまったわけです」
横溢する知的好奇心を受け止めたのが、神戸の老舗時計宝飾店カミネの社長、上根亨氏だった。上根氏は独立系ブランドの日本導入を他に先駆けて推進してきたひとりでもある。この出会いにより、Fさんの時計人生は広がっていく。コレクションは多彩になり、顧客向けセミナーではブランドやユーザーと親交も深めた。Fさんはこう振り返る。
「F.P. ジュルヌ、パルミジャーニ・フルリエ、H.モーザー。カミネさんで取り扱いが始まった頃に購入したブランドです。当時いずれも知名度は低く、将来性も定かではなかった。同時期に興り、そしてなくなった独立ブランドはたくさんあります。末永くメンテナンスが可能なのかという心配もありました。でも、3ブランドとも非常に成長しました」
いずれも今や揺るぎない地位を確立したブランドばかりだ。上根氏の慧眼に信頼を寄せ、Fさんは以降ほぼすべての腕時計をカミネで揃えるようになった。
Fさんと上根氏の親交は、Fさんの勧めで時計を愛好し始めた父親と、カミネの先代社長にまでつながった。それを示すのが、A.ランゲ&ゾーネの「ランゲ1」である。ドイツ医学の全盛期に医師となり、ドイツへの深い思い入れがあったFさんの父親。ブランド導入から間もないカミネで先代社長から購入したのが、このモデルだった。
Fさんはまた、息子たちの時計愛も陶冶した。今回の取材では、次男のYさんと話す機会もいただいた。当時医大生だったYさんは、今や医師として独り立ちしている。そんなYさんに最も思い入れのある1本を尋ねると、2021年に発表された「ルミノール クロノ」の名が挙がった。「研修医から専攻医になる節目に、父が買ってくれたものです。専門医プログラムを受ける病院の抽選日に初めて着けたところ、その左腕で見事に第1希望のクジを引かせてくれた、僕のラッキーアイテムです」。
Fさんは腕時計を贈るにあたり、Yさんに「予算内ならば何でも良い」と伝えたそうだ。カミネの店内を見て回ったYさんが選び抜いた腕時計が、若き日の父と同じ「ルミノール クロノ」だったわけである。また、Yさんはこの後再びカミネを訪れ、貯めたアルバイト代で初めて自分用の腕時計を購入した。選んだのは2018年に日本上陸したブランド、ゴリラの自動巻きモデルである。父を見てきたYさんもまた、豊かな時計人生を送っていくのだろう。
息子たちを無事、一人前に育て上げたFさんと奥様。今もふたりは結婚を記念する節目に、ともに時計を増やしている。結婚25周年には銀婚式にちなんだ色味を意識し、ともにパテック フィリップからホワイトゴールドモデルを選んだ。Fさんは「年次カレンダー・レギュレーター」、奥様は「カラトラバ」だ。2022年に迎えた結婚30周年記念は、その年に発表された新作からパテック フィリップ「ワールドタイム フライバック・クロノグラフ」とカルティエ「クッサン ドゥ カルティエ」で祝した。
時計を愛し、掛け替えのない家族との時間を慈しむ。何かと忙しく時間に追われがちな現代において、その幸福が一層尊く思われた。Fさんの足跡をたどる機会に恵まれたことに感謝したい。
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