時計愛好家の生活 H.N.さん「知識を得るほどに好きになったのが、ジャガー・ルクルトです」

2024.04.24

快活でチャーミング。自身の“好き”を語る無邪気なH.N.さんは、そんな女性時計愛好家だ。しかし、その時計哲学に触れるとその卓越した慧眼に驚かされる。初めて手にしたクォーツ搭載機から世界でも稀少なアンティークウォッチまでどれも実際に日常的に使うことで楽しみゆったりと愛情を注いでいる。

H.N.さん
医療関係に従事。美的観点や知的好奇心の追求、予算などの面から主にアンティーク、ヴィンテージウォッチを愛好する。東京・日本橋「ホワイトキングス」での購入を機に、今回の取材に応じていただいた。無類のダイビング好きで、これまでに世界中で約900本潜っている。最も好きな場所は紺碧の広がる小笠原の海。
三田村優:写真
Photographs by Yu Mitamura
髙井智世:取材・文
Text by Tomoyo Takai
[クロノス日本版 2021年3月号掲載記事]


「時計は知識が付くと、視点が変わってまた違う楽しみが生まれます」

オメガ「マリーン」

納品されたばかりのオメガ「マリーン」を手にするH.N.さん。1932年誕生のマリーンは2重構造の防水角型ケースが特徴。裏側のロックを外し、内部本体を引き抜いて操作する。独特な構造やダイバーズウォッチとしての歴史をはじめ、ツートンカラーの文字盤や偶数飛びアラビックインデックスといった意匠までもがHさんの琴線に触れた。

 冬晴れの東京・日本橋。オメガを中心としたヴィンテージウォッチを扱う「ホワイトキングス」へ、オメガの通称「マリーン」が納品されることを知りうかがった。マリーンは世界で初めて商業化されたダイバーズウォッチだ。マイルストーンに刻まれたこの逸品を手に入れた女性がH.N.さんである。

「この子をお迎えするために、指輪の色を合わせてきました」。Hさんの指には、赤いカラーダイヤモンドがきらめいている。「何年か前に初めてマリーンの存在を知ってから、ずっと探してきたんです。マリーンといえばケース形状がフーデッドのものが多いのですが、そうではなくてこのH型のもの。理想形にようやく出合えました」。

 Hさんの朗らかな声に、空気が華やぐ。Hさんは「防水時計にするならば、ラウンドケースにスクリューバックという合理的な方法もあったのに、あえて角型で頑張ろうとした気概とか、ほんと、面白い時計ですよね」と続け、周囲の笑いを誘った。

タグ・ホイヤー「S/el」、ロレックス「オイスター パーペチュアル デイトジャスト」、ジャガー・ルクルト「レベルソ・グランスポール・ダム」

海を愛するHさんらしい目線で選ばれた3モデル。(右)最初に自分で購入し、ダイバーズウォッチとして活用していたタグ・ホイヤー「S/el」。現在は機械式愛好家のHさんだが、愛着のあるこのクォーツ時計は手放さない。(中)天然石のソーダライト文字盤に10ポイントダイヤモンドをあしらったロレックス「オイスター パーペチュアル デイトジャスト」。(左)ジャガー・ルクルト「レベルソ・グランスポール・ダム」。その裏側は中央にMOPを配した黒文字盤。昼夜表示付き。アールデコ調の美麗な指輪はすべて日本最高峰のジュエリー職人、首藤治氏へのオーダーメイド品。カラーダイヤモンドは時計の色に合わせてHさん自身がルースで選んだもの。

 この取材に合わせ、Hさんは自身のコレクションを持参してくれた。ファーストウォッチとして指したのが、タグ・ホイヤーの小ぶりな「S/el」である。「大学卒業前にダイビングのライセンスを取得したことを記念して、ダイバーズウォッチとして買いました。その時にお店の方から機械式時計のことを教わったのが、最初に機械式へ憧れの気持ちが芽生えた瞬間です」。

 間もなくHさんは、深いブルーカラーのソーダライトを文字盤に採用したロレックス「オイスター パーペチュアル デイトジャスト」やジャガー・ルクルト「レベルソ・グランスポール・ダム」といったモデルを手にしていく。「レベルソのケースサイドに金魚が描かれていて、そのおなかのところに小さなメレダイヤが埋まっています。これを見て、ジャガー・ルクルトのセッティング技術の高さを知りました」。

ジャガー・ルクルト「レベルソ・グランスポール・ダム」

ジャガー・ルクルト「レベルソ・グランスポール・ダム」の表側の白文字盤。ムーブメントはケースの両面でふたつの時刻表示を行うキャリバー864を搭載。
ジャガー・ルクルト「レベルソ・グランスポール・ダム」

Hさんが感銘を受けたケースサイドの金魚のモチーフ。エングレービングとダイヤモンドのパヴェセッティングが秀逸。この部分だけで約80個のダイヤモンドが採用されている。

 これ以降、Hさんのコレクションは1920年代から60年代にかけて作られた古い時計で築かれていく。ジャガー・ルクルトはその扉を開いたブランドだった。「いろいろ勉強していくうちに、どのブランドがどこからムーブメント供給を受けているとか、仕組みが分かってきました。知識を得るほどに好きになったのが、ジャガー・ルクルトです」。多くの女性が愛好するカルティエ ウォッチをHさんもいくつか所有する。そのうち2本の購入動機が面白い。

 1本目は、ジャガー・ルクルト製の世界最小機械式キャリバー101を搭載したカルティエのアンティークウォッチ。「ジャガー・ルクルトの101を欲しいと思いましたが、現行モデルだと予算的に手が届かない。だからアンティークで探し始めました。そのうちロサンゼルスの時計店で見付けたのが、カルティエ名義のこの時計です」。もう1本のレベルソタイプも同様に、ケースはカルティエ、ムーブメントはジャガー・ルクルトだ。「本家よりも薄いかもしれないケースの薄さがたまりません。ルクルトのレベルソも良いけれど、質実剛健といわんばかりにカッチリしてしまう。そこを供給先のカルティエがうまく仕立てていますね」。

1926年製カルティエのアンティークウォッチ

テンプが文字盤から露出した1926年製カルティエのアンティークウォッチ。プラチナ素材。Hさんはこれをかつて表参道のハナエモリビル地下にあったアンティークジュエリー専門店で偶然発見した。写真の背景にしているのは同じタイプのモデルが掲載されたオークションカタログ。1988年にジュネーブで開催されたカルティエオークションのものだ。

 アンティークウォッチの装飾性に心引かれる女性は多い。しかし、Hさんの視点は玄人愛好家のそれである。パテック フィリップの2本はなぜ選ばれたのだろうか?

「パテックはリュウズの感触が他と違います。それがたまらなく良い。それからムーブメントのパーツにまで施されている仕上げと装飾ですね。職人にしか分からない、私には見えない部分ですが、その中身を欲しいと思いました」。ただ、と文字盤を見つめて続ける。「ブレゲ数字のインデックスは、私的にはこの(センターから6時位置にかけた)隙間がちょっと気になるんですね。ここにスモールセコンドが付いたら最高だと思います。メンズモデルにはスモセコ付きがあるので一度実物を見てみたいんですが、本やカタログの資料を探しても所在が分からない。いつか実際に拝見できるものに出合えたら、このモデルと並べて記念写真を撮りたいです!」。

ジャガー・ルクルト製アンティークウォッチ

ジャガー・ルクルト製アンティークモデル2本。(上)1950年代製のジュエリーウォッチ。花をモチーフにしたラグ中央部のエメラルドは球状の繊細な固定具によって腕の動きに合わせて優雅に揺れる。(下)1950年代製のキャリバー101搭載モデル。カルティエの101を購入した後に見付けて購入。Hさんは101を2本重ね着けして「GMT使い」することも。Hさんが次に欲しいのは「101のトゥッティフルッティ仕様」。
カルティエのアンティークウォッチ

ジャガー・ルクルト製ムーブメントを搭載するカルティエのアンティークウォッチ2本。Hさん曰く「ジャガー・ルクルトを好きになってから、カルティエにも興味が湧きました」。反転ケースを採用した「レベルソ」タイプは1960年代、キャリバー101搭載モデルは1930年代製。なお、キャリバー101は、1929年の開発時から今日に至るまで世界最小の機械式ムーブメントとして君臨し続ける。その体積は約0.2㎤で、重量はわずか1gだ。

 Hさんのモットーは、どんな時計も実用品として使うことだ。先述の101は入手時に日差2時間だったものを、約8カ月かけて日差1分まで縮めてみせた。カルティエの古いオークションカタログに記録されているような超稀少モデルも、Hさんは丁寧に日常使いしている。「テンプが文字盤側から見える珍しい時計です。仕事で疲れた時にこの動きを見ると癒やされます」。Hさんはこのモデルが欲しくて、先にカタログを手に入れたという。Hさんは食指が動いた先のものを、まず徹底的に学ぶことから始める人だ。「時計は知識が付くと、視点が変わってまた違う楽しみが生まれます。ただ、勉強すると大変なんです。どんどん欲しいものが増えていくから(笑)」。

ロレックス「デイトジャスト」

レディスサイズのロレックス「デイトジャスト」。Hさんはオイスターをモチーフにしたと思われるゴールドブレスレットのリンクに施された装飾のユニークさに心引かれて購入を決意。3コマ詰めて自身のサイズに合わせた。これが作られた1960年代当時は、腕時計が庶民の間にますます浸透し、多様なデザインが増え始めた時代だ。現在のように工業化が進み、完全に規格化される直前の、まだ大らかさが残る時代を感じさせる1本だ。

 Hさんは所有する本数の上限を現在の10本程度に留めている。過去には倍以上の本数を持っていたが、オーバーホールの費用を考慮し、この程度が自分の手の内でまかなえる範囲だと見定めたのだ。「この中にはもうすぐ作られてから100年を迎える時計もあります。せっかくここまで来たわけだから、次の100年も頑張ってほしい。だからオーバーホールまで責任を持ちたい。自分の代で壊しておしまいにするのは忍びないですからね」。これはアンティークウォッチに限らず、人と物との理想形かもしれない。Hさんの時計哲学に、心豊かな生活がうかがえるようだ。

パテック フィリップのアンティークウォッチ

パテック フィリップの2本。(左)1950年代製のレディス カラトラバ。Hさん曰く「デザインの最高峰と呼ばれるだけあってさすがに綺麗。均一が取れており、“最も時計らしい時計”だと感じます。ラグの落ちる角度やベゼルの幅なども秀逸ですね」。(右)1920年代製のアンティークモデル。ケース側面には植物モチーフのエングレービング入り。レディスウォッチのインデックスがすべてブレゲ数字であることはかなり珍しいのだという。


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