快活でチャーミング。自身の“好き”を語る無邪気なH.N.さんは、そんな女性時計愛好家だ。しかし、その時計哲学に触れるとその卓越した慧眼に驚かされる。初めて手にしたクォーツ搭載機から世界でも稀少なアンティークウォッチまでどれも実際に日常的に使うことで楽しみゆったりと愛情を注いでいる。
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医療関係に従事。美的観点や知的好奇心の追求、予算などの面から主にアンティーク、ヴィンテージウォッチを愛好する。東京・日本橋「ホワイトキングス」での購入を機に、今回の取材に応じていただいた。無類のダイビング好きで、これまでに世界中で約900本潜っている。最も好きな場所は紺碧の広がる小笠原の海。
Photographs by Yu Mitamura
髙井智世:取材・文
Text by Tomoyo Takai
[クロノス日本版 2021年3月号掲載記事]
「時計は知識が付くと、視点が変わってまた違う楽しみが生まれます」
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冬晴れの東京・日本橋。オメガを中心としたヴィンテージウォッチを扱う「ホワイトキングス」へ、オメガの通称「マリーン」が納品されることを知りうかがった。マリーンは世界で初めて商業化されたダイバーズウォッチだ。マイルストーンに刻まれたこの逸品を手に入れた女性がH.N.さんである。
「この子をお迎えするために、指輪の色を合わせてきました」。Hさんの指には、赤いカラーダイヤモンドがきらめいている。「何年か前に初めてマリーンの存在を知ってから、ずっと探してきたんです。マリーンといえばケース形状がフーデッドのものが多いのですが、そうではなくてこのH型のもの。理想形にようやく出合えました」。
Hさんの朗らかな声に、空気が華やぐ。Hさんは「防水時計にするならば、ラウンドケースにスクリューバックという合理的な方法もあったのに、あえて角型で頑張ろうとした気概とか、ほんと、面白い時計ですよね」と続け、周囲の笑いを誘った。
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この取材に合わせ、Hさんは自身のコレクションを持参してくれた。ファーストウォッチとして指したのが、タグ・ホイヤーの小ぶりな「S/el」である。「大学卒業前にダイビングのライセンスを取得したことを記念して、ダイバーズウォッチとして買いました。その時にお店の方から機械式時計のことを教わったのが、最初に機械式へ憧れの気持ちが芽生えた瞬間です」。
間もなくHさんは、深いブルーカラーのソーダライトを文字盤に採用したロレックス「オイスター パーペチュアル デイトジャスト」やジャガー・ルクルト「レベルソ・グランスポール・ダム」といったモデルを手にしていく。「レベルソのケースサイドに金魚が描かれていて、そのおなかのところに小さなメレダイヤが埋まっています。これを見て、ジャガー・ルクルトのセッティング技術の高さを知りました」。
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これ以降、Hさんのコレクションは1920年代から60年代にかけて作られた古い時計で築かれていく。ジャガー・ルクルトはその扉を開いたブランドだった。「いろいろ勉強していくうちに、どのブランドがどこからムーブメント供給を受けているとか、仕組みが分かってきました。知識を得るほどに好きになったのが、ジャガー・ルクルトです」。多くの女性が愛好するカルティエ ウォッチをHさんもいくつか所有する。そのうち2本の購入動機が面白い。
1本目は、ジャガー・ルクルト製の世界最小機械式キャリバー101を搭載したカルティエのアンティークウォッチ。「ジャガー・ルクルトの101を欲しいと思いましたが、現行モデルだと予算的に手が届かない。だからアンティークで探し始めました。そのうちロサンゼルスの時計店で見付けたのが、カルティエ名義のこの時計です」。もう1本のレベルソタイプも同様に、ケースはカルティエ、ムーブメントはジャガー・ルクルトだ。「本家よりも薄いかもしれないケースの薄さがたまりません。ルクルトのレベルソも良いけれど、質実剛健といわんばかりにカッチリしてしまう。そこを供給先のカルティエがうまく仕立てていますね」。
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アンティークウォッチの装飾性に心引かれる女性は多い。しかし、Hさんの視点は玄人愛好家のそれである。パテック フィリップの2本はなぜ選ばれたのだろうか?
「パテックはリュウズの感触が他と違います。それがたまらなく良い。それからムーブメントのパーツにまで施されている仕上げと装飾ですね。職人にしか分からない、私には見えない部分ですが、その中身を欲しいと思いました」。ただ、と文字盤を見つめて続ける。「ブレゲ数字のインデックスは、私的にはこの(センターから6時位置にかけた)隙間がちょっと気になるんですね。ここにスモールセコンドが付いたら最高だと思います。メンズモデルにはスモセコ付きがあるので一度実物を見てみたいんですが、本やカタログの資料を探しても所在が分からない。いつか実際に拝見できるものに出合えたら、このモデルと並べて記念写真を撮りたいです!」。
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Hさんのモットーは、どんな時計も実用品として使うことだ。先述の101は入手時に日差2時間だったものを、約8カ月かけて日差1分まで縮めてみせた。カルティエの古いオークションカタログに記録されているような超稀少モデルも、Hさんは丁寧に日常使いしている。「テンプが文字盤側から見える珍しい時計です。仕事で疲れた時にこの動きを見ると癒やされます」。Hさんはこのモデルが欲しくて、先にカタログを手に入れたという。Hさんは食指が動いた先のものを、まず徹底的に学ぶことから始める人だ。「時計は知識が付くと、視点が変わってまた違う楽しみが生まれます。ただ、勉強すると大変なんです。どんどん欲しいものが増えていくから(笑)」。
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Hさんは所有する本数の上限を現在の10本程度に留めている。過去には倍以上の本数を持っていたが、オーバーホールの費用を考慮し、この程度が自分の手の内でまかなえる範囲だと見定めたのだ。「この中にはもうすぐ作られてから100年を迎える時計もあります。せっかくここまで来たわけだから、次の100年も頑張ってほしい。だからオーバーホールまで責任を持ちたい。自分の代で壊しておしまいにするのは忍びないですからね」。これはアンティークウォッチに限らず、人と物との理想形かもしれない。Hさんの時計哲学に、心豊かな生活がうかがえるようだ。
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https://www.webchronos.net/features/109863/