SIHHやバーゼルワールドへ取材に行っても、なかなか見られないようなモデルをHさんは普通に所有している。この3作、じっくり触ったのはメーカーのブースではなく、実はHさんの事務所が初めてだ。左から、ジャケ・ドローのチャーミング・バード、メートル・デュ・タンのチャプターワン トノー、ユリス・ナルダンのグランド デッキ マリーン トゥールビヨン。いずれもHさんが好む「パターンにはまらない造形」と「作った人の発想が感じられる」時計ばかりだ。


取材中、事務所からたまたま見つかったHさんの父親が持っていた時計のコレクション。オーガスト・レイモンドのトリプルカレンダークロノグラフ、ハミルトンのパイピング・ロック手巻き、ミネルバのピタゴラス自動巻きなど、通好みの時計が揃う。個人的に引かれたのは、オメガ シーマスター300のコンビモデル。これほど状態の良い個体は見たことがない。Hさんはすべての時計を取り出してはひとつひとつ磨き、きちんと箱に収めていた。亡父への強い愛情を思うべし。なお右下に見えるロレックス デイトジャストのボーイズサイズは昔、父親から譲られて以降、Hさんが愛用しているもの。「防水性能が高いから、絵を描いても時計が壊れないんですよね」。

 筆者の乏しい経験を言うと、時計に大枚をはたいたコレクターの中には、投じた金額や手に入れた時計、そしてそこから生じるコレクターとしてのステータスにとらわれていく人は少なくない。しかし数千万円クラスの時計をずらりと揃え、また壊れたと笑い飛ばすHさんから、そういった様子は微塵もうかがえない。コレクションの扱いも、決して無造作ではないが、実にカジュアルである。では、Hさんは何が目的で時計を集めているのだろうか? 少なくとも収集という行為がゴールではないだろう。

「生きていく中で、常に芸術とは何かは考えていますね。例えば、五七五七七の短歌。構成要素の50%は言葉、50%は調べですね。言葉の奥にある詩心が〝歌心〟になり、絵にすると〝絵心〟になる。時計も同じですね。こんなものを作ったら楽しそうという発想が、時計における〝詩心〟となって表れる」。例として挙げたのは、ジャケ・ドローのオートマタ、チャーミング・バード。

「ボタンを押すと鳥がさえずりますが、ただそれだけの機能しかないんです。時間を知らせることにまったく関係ないけれど、この時計ならではの詩情がある。詩情のある、でも役に立たない時計を作って、それに値段を付けるって面白いですよね」

 Hさんが重視するのが〝ひねり〟だ。

「最初の言葉だけで全体が想像できてしまう短歌は面白くない。短歌は最後の七七が大事なのです。一定のパターンにはまらないものに魅力を感じますね」

 なるほど彼のコレクションを見ると、どの時計もひとひねり利いている。そして造形に感動があることが大事、と彼は語る。

「パテック フィリップやオーデマ ピゲの造形は、総じて保守的ですね。モデルが違っても、あまり形が変わらない。パテック フィリップはそれでもまだ変化がありますが。一方、ローラン フェリエのガレ・マイクロローターの造形を見ると、携わった人たちの精神性と温かみを感じますね」

 面白いことに、Hさんはリセールバリューを一切考慮せずに時計を購入する。彼が飛び抜けたビリオネアだからではなく、自身のときめきを大切にしたいからだという。

「私が買うのは、時計が好きだからです。資産価値はあったほうがいいのは分かっています。しかし資産価値が高くても、ときめく時計とは比べ物になりませんよ」。ときめく時計のためだけに大枚を投じてきたHさん。これは第一級のコレクターに共通する要素だが、半年で10億円以上も使えば、その審美眼は尋常ではなくなるだろう。

「会社からお金を借りれば、もっともっと時計は買えるでしょう。でも私は、自分のお金しか時計に使っていません。これはあくまで私事ですからね」。真剣に自腹で買ったら、どんな審美眼を得るのか、Hさんのコメントをいくつか引用したい。「モリッツ・グロスマンの時計からは、創業間もないメーカーのエネルギーを感じる」「ピアジェの900Pには、機械式時計の面白さがある」「カルティエは幅が狭く奥が深いメーカーだ」「ガランテからは真面目に遊んだ時計という印象を受ける」「ロレックスは機械で作った時計だが、素晴らしい」。これらは「最初は何も分からなかった」(Hさん)、つまり半年前は時計に関してまったく知識のなかった人のコメントである。仮に彼が時計の世界に身を置いたならば、たちまちジャーナリストとして名を上げたに違いない。しかも35年間1日の休みも取らない状況で(彼は分刻みのスケジュールで動いている)、Hさんはこれだけの見識を得たのだ。彼が実業の世界で成功したのも納得ではないか。使った金額はもちろん、時計に投じた集中力も、常人とは思えない。