今なお時計市場が成長を続ける中、時計に関する情報はさまざまな媒体で発信されている。しかし、スマートフォンを使って手軽に情報発信したり、写真撮影したりする手段がなかった“過去”の記録は、決して豊富とは言えない。今回より、30年以上にわたって時計業界を取材してきたジャーナリスト菅原茂氏が、「スイス時間旅行−追想の90年代」として、1990年代の時計業界を当時の写真とともに振り返る連載を開始する。第1回は、パテック フィリップの取材を通して見た、同ブランドの時計づくりの全貌だ。
Text by Shigeru Sugawara
[2024年6月3日公開記事]
始まりは1992年。パテック フィリップでの時計取材
スイスにおける時計取材の始まりは、1992年のパテック フィリップだった。当時の私はジュエリー誌の編集者。80年代後半から主としてフランスの高級ジュエリーやスイス時計ブランドの取材や紹介を専門としていたが、きっかけは前年に訪れた。それは当時、パテック フィリップ ミュージアムの館長を務め、ブランドの生き字引として知られる故アラン・バンベリー氏との出会いだった。発表会のために来日したバンベリー氏とのインタビューの際にいつか機会があれば本社を訪ねてみたいと伝えたところ、早くも翌年実現したのだ。パテック フィリップは、日本、香港、オーストラリアなどアジア地区から新聞や一般誌の記者を招いた少人数のプレスツアーを1992年6月に催し、幸運にもそれに参加できた。ちなみに、日本からはジュエリー誌の私と女性誌の編集者の2名のみだった。
プレスツアー「パテック フィリップを知ってもらう」
プレスツアーの目的は「パテック フィリップを知ってもらう」とのこと。すでに世界的に有名なパテック フィリップを「知ってもらう」とはどういう趣旨なのだろう? 最終日の夕方、当時のフィリップ・スターン社長(現名誉会長)は、「伝統を守ることが真の価値を生み出し、価値の本質は機械式ムーブメントにある。パテック フィリップは自社ムーブメントから一貫して作るメーカーであることを理解してほしい」との考えを披露したが、それこそが答えだった。90年代に入り、スイス時計産業が機械式時計の復活に向けて動き出したとはいえ、機械式時計の輸出は個数ベースで全体のわずか数%を占めるマイナーな存在という状況にあって、機械式の復権と技術革新に先見の明をもったパテック フィリップの姿をぜひその目で確かめてほしいというのだった。
時計づくりの全貌を伝えるためにパテック フィリップが用意したのは、3日間に及ぶフルタイムのプログラム。ジュネーブ、ローヌ通りの本社兼本店から至近のホテルに宿泊した私たちは、朝食時に広報担当の女性カストロさんからその日のスケジュールの説明を受け、食事が終わるとすぐに出発。ちなみにランチもディナーもパテック フィリップのスタッフとの会食で、夜遅くホテルに帰るまで毎日が時計漬けの日々だった。
パテック フィリップの本社ビルからツアーがスタート
そんな短期集中研修のようなプログムラムの初日は、ローヌ通りに1908年に建てられた本社ビル(当時)からスタートした。歴史的な著名人たちも訪れた地上階の優雅なサロンをはじめ、社屋上階のレマン湖を望む工房や近隣の工房をひと通り見学。とくに印象的だったのは、サロンの大金庫に収納された豪華なハイジュエリーウォッチの数々や、膨大な保存台帳に記された著名人のリスト、あるいはアメリカのハイジュエラー、ティファニーとの提携記録、さらに彫金やエナメル工房での専門職人による手仕事だった。当時すでにパテック フィリップが誇る稀少なハンドクラフトを目にしていたわけだ。
ラ・ジョンクションの工場へ
続いては、ローヌ川とアルヴ川との分岐点ラ・ジョンクションに構える比較的大きな工場だ。ここでは機械式ムーブメントの部品作りから組み立てまでの工程が中心となり、また専門のアトリエで修理やメンテナンスを行っていた。圧巻は、かつて使用した工具や部品を収納する巨大な耐火金庫だ。当時の工場長ユベール氏はそれらを「ダイヤモンドやゴールドに等しい貴重な財産」と称し、顧客の時計の修理はもちろんミュージアムピースの修復も可能だと語っていた。
ラ・ジョンクションではまた、「キャリバー89」について、精巧な構造模型を使用して説明を受けた。事前に多少の知識はあったものの、9年の研究開発を経て、創業150周年の1989年に完成した33のコンプリケーションを含む当時世界で最も複雑な時計の仕組みに圧倒され、大いに興味をかき立てられた。帰国してからトゥールビヨンや永久カレンダー、グランドおよびプティットソヌリ、ミニッツリピーター、スプリットセコンド、恒星時や均時差など、「キャリバー89」に搭載された複雑機構を詳しく調べて知識の定着を図ったが、思い返せば、ここで見聞したことから受けた感銘が、宝飾品のみならず時計の専門家をも目指すモチベーションになったのは間違いない。
ジュウ渓谷のマスターウォッチメーカーを訪ねる
プレスツアーでは高度な複雑時計を手掛けるマスターウォッチメーカーの元も訪れた。場所はスイス高級時計の聖地ジュウ渓谷だ。森に囲まれた山中の実に牧歌的な景色の中でオルロージュ・コンプレと呼ばれる完全職人の時計師が数年をかけて1個の時計をひとりで作り上げるとのこと。個人宅のような小規模な工房で著名ブランドの複雑時計を作る、いわば「スゴ腕職人」が昔からジュウ渓谷にはたくさんいると聞いた。その時はまだ想像もしなかったが、その2年後から四半世紀以上にわたってしばしば訪れることになるジュウ渓谷は、自分にとってスイスで最も親しみを覚える故郷のような地になった。
今はない工房も見学
1992年6月の取材に基づけば、当時のパテック フィリップは、ジュネーブの本社に加え、ラ・ジョンクションをはじめとする市街と郊外、ジュウ渓谷など約10か所に工房を構え(ケースやブレスレットも含む)、年間約1万2000個の時計を製造していた。「結果として限定数しか生産できないのです。わが社は怠け者なので」と冗談まじりに語っていたフィリップ・スターン氏だったが、「怠け者」どころか、この時すでに各地に分散する工房をひとつ屋根の下に統合し、生産効率を高める新工場のプロジェクトを着々と進めていたことが後に判明した。実際、新工場は1993年秋からジュネーブ郊外のプラン・レ・ウアットで建設が始まり、1997年から本格稼働することになったが、このプレスツアーは旧工房でのほぼ最後の時計製造を見届ける貴重な機会にもなったわけだ。
故アラン・バンベリー氏の功績
ところで、有益なきっかけを作ってくれたアラン・バンベリー氏はその後、ジュネーブ時計エナメル博物館を統合するかたちで大規模なパテック フィリップ ミュージアムが開館する2001年の頃に館長職をアルノー・テリエ氏に譲って現役を退いたが、彼によれば1992年の時点でミュージアムピースはすでに約800点以上もあり、そこにはオークションなどを通じて買い戻した140点が含まれると語っていたのを覚えている。パテック フィリップの懐中時計と腕時計に関する彼の著書は、今なお調べものの際に参照する貴重な資料だ。175周年(2014年)を記念して東京で開催されたパテック フィリップ展のカタログ『歴史の中のタイムピース』執筆の際にも参考になったことを付け加えたい。
菅原茂氏のプロフィール
1954年生まれ。時計ジャーナリスト。1980年代にファッション誌やジュエリー専門誌でフランスやイタリアを取材。1990年代より時計に専念し、スイスで毎年開催されていた時計の見本市を25年以上にわたって取材。『クロノス日本版』などの時計専門誌や一般誌に多数の記事を執筆・発表。休日はランニングと登山に精を出す。
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