“良い時計の見分け方”を、ムーブメントの仕上げや面取り、性能から見る『良質時計鑑定術』。今回はケーススタディとして、ムーブメントの仕上げから最上級、上級、実用時計に分け、それぞれを撮り下ろし写真とともに掲載。この三者を比較してみてほしい。
https://www.webchronos.net/features/119515/
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2020年5月号掲載記事]
最上級時計
A.ランゲ&ゾーネ「グランド・コンプリケーション」
本記事では、ムーブメントの仕上げを比較すべく、最上級、上級、そして実用時計の3つを掲載する。その頂点として取り上げたのは、A.ランゲ&ゾーネが作り上げたグランドコンプリケーションだ。販売当時の定価200万ユーロ、6本のみの限定生産というこの超複雑時計は、確かに価格以上の説得力を持っている。注目すべきは、ふんだんに用いられたブラックポリッシュだ。
非常に複雑な造形を見せるCal.L1902。このムーブメントより複雑な機構を載せたムーブメントは存在するが、仕上げに限っていうと、本作に及ぶものはないだろう。ほとんどのスティールパーツには、超高級品のみに見られるブラックポリッシュ(ポリ・ノワール)仕上げが与えられている。高級時計に見られる筋目仕上げよりも、はるかに手間のかかる仕上げを、ありふれたもののように用いている。
A.ランゲ&ゾーネが2013年に発表した「グランド・コンプリケーション」は、ドイツの時計史上最も複雑で、現行品はもちろん、過去にさかのぼっても極めて希な仕上げを持つ時計である。スプリットセコンドクロノグラフに、永久カレンダー、ミニッツリピーターに、グランソヌリ、プチソヌリとフドロワイヤントを持つこの複雑時計は、機能部品のほとんどがスティール製だ。そしてそのほとんどに、完全な鏡面を持つブラックポリッシュ仕上げ(ポリ・ノワール)が施されているのである。
一般的に、高級品のスティールパーツは、真鍮や洋銀製の受け同様、手作業で施された丸い面取りを持つ。上面に施すのは、艶を消した筋目仕上げだ。紙ヤスリやラップフィルムに部品を押しつけ、軽く面をなでると、筋目が施される。対してブラックポリッシュ仕上げは、紙ヤスリやラップフィルムなどで面を均した後、亜鉛などのプレートで磨いて鏡面を与えていく。この手法に長けているダニエル・ロートは「亜鉛などで磨いても部品の傷は取れない。そのため、下地を完全に整えることが重要だ。
しかし、下地がよくできたからと言って、完全な仕上げが得られるとは限らない」と説明する。具体的には、気温や湿度によって表面の仕上がりがわずかに変わるというのだ。そのため、ブラックポリッシュのスティールパーツは、トゥールビヨンのキャリッジや緩急針、ネジ(本当に素晴らしいネジは、頭が完全に鏡面仕上げである)といった、小さいが、視覚上最大限の効果が得られるところにのみ使われてきた。あまりにも手間がかかりすぎるため、人件費の安かった19世紀後半から20世紀初頭に作られた高級時計であっても、この仕上げを見るのは決して多くない。加えて、息がかかるだけで表面が曇る可能性があるため、ムーブメントの組み立ては極めて難しかったのである。
そういうブラックポリッシュ仕上げのスティールパーツを、グランド・コンプリケーションは至る所に用いている。筆者の知る限り、これほど贅沢な使い方をした時計は、今までも、そしてこれから先も、数えるほどしかないのではないか。正直、この時計が示すのは、今まで作られた時計の中で、最高峰の仕上げのひとつである。量産品には望むべくもない仕上げを持つグランド・コンプリケーションは、正真の工芸品と言えるだろう。
A.ランゲ&ゾーネ史上空前の大作。永久カレンダー、ミニッツリピーター、グランソヌリとプチソヌリ、スプリットセコンドクロノグラフとフドロワイヤントなどを備える。販売時の価格は192万ユーロ(!)。発表は2013年。手巻き(Cal.L1902)。67石。パワーリザーブ約30時間。18KPGケース(直径50mm、厚さ20.3mm)。世界限定6本。参考商品。(問)A.ランゲ&ゾーネ Tel.03-4461-8080
上級時計
F.P.ジュルヌ「クロノメーター・スヴラン」
上級のサンプルとして取り上げたのは、あまり仕上げが注目されてこなかったF.P.ジュルヌである。正直、かつてのF.P.ジュルヌは、お世辞にも同価格帯の時計に比べて仕上げが良いとは言えなかった。しかし、細かなディテールの改善は代表作「クロノメーター・スヴラン」の魅力を大きく高めた。また、仕上げだけにフォーカスしないディテールも、F. P.ジュルヌらしいポイントだ
ダブルバレルと直径の大きなテンワにより、高い等時性を持つムーブメント。見栄えにも配慮が施されており、地板と受けは真鍮でも洋銀でもなく、18Kローズゴールド製である。現在、ほとんどのムーブメントをゴールドで製造するのは、F.P.ジュルヌのみである。ムーブメントの仕上げは極上ではないが、手作業をふんだんに使った良質なものだ。表面をブラックポリッシュ仕上げにしたネジも高級品らしい。
ユニークな機構とデザインで時計愛好家を魅了するF.P. ジュルヌ。筆者は長年フランソワ-ポール・ジュルヌのクリエーションを高く評価してきたが、正直なところ、同価格帯の時計と比べて、仕上げが傑出していたわけではない。かつて、ジュルヌはかのジョージ・ダニエルズに仕上げを良くした方がいいと言われたらしいが、価格が大幅に上がってしまうため、彼は仕上げの改善には懐疑的だったのである。
事実、初期のF.P. ジュルヌのムーブメントは、面取りが手作業ではなく、量産機を思わせる機械仕上げだった。正確に言うと、わずかに手作業は加えていたものの、手で仕上げた面取り特有の丸みは持っていなかった。筆者のようなファンはそれでもかまわないが、価格なりの仕上げを期待する人は、満足しなかったに違いない。
しかし2014年頃から、F.P. ジュルヌはムーブメントの仕上げを大幅に改善した。ムーブメントの素材を真鍮から金に置き換えたことが、ひとつの引き金だったのだろう。その帰結は、最新型のクロノメーター・スヴランを見れば明らかだ。受けの面取りは丸みを帯びるようになり、ペルラージュも細かくなった。もっとも、ジュネーブ仕上げは相変わらずやや深めだが、ムーブメントの見映えは大きく変わったと言える。
なお仕上げに関して言うと19年の「アストロノミック・スヴラン」はジュルヌ史上最高峰だろう。このモデルには、スティールパーツの多くに手間のかかったブラックポリッシュが多用されている。これだけ凝った理由を本人に尋ねたところ、「これは最高峰だから」とのこと。
もっとも、仕上げが改善されても、良い意味でのF.P. ジュルヌらしさは不変だ。例えば、穴石の穴周り。高級品よろしく「露天掘り」をしているが、さらに穴を垂直に掘り込んで、穴石をその奥に固定している。見映えを考えれば、穴石はもっと手前に据えるべきである。そうすれば、クロノメーター・スヴランのムーブメントはいっそう見応えのあるものになっただろう。しかし彼にとって重要なのは、見た目以上に、軸の精度を出すことであるらしい。
ユニークな設計はそのままに、年々仕上げを改善するF.P. ジュルヌ。正直価格は安くないが、それだけの魅力は間違いなくある。
高精度を追求したF.P.ジュルヌのエントリーモデル。フランソワ-ポール・ジュルヌ本人があまり関心を持たないこともあって、仕上げで語られることの少ないメーカーだが、年々その完成度を高めている。手巻き(Cal.1304)。22石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約56時間。Ptケース(直径40mm)。30m防水。(問)F.P.ジュルヌ東京ブティック Tel.03-5468-0931
実用時計
IWC「ポルトギーゼ・オートマティック」
実用時計と呼ぶには良すぎるが、工業的に作られたムーブメントのサンプルとしてIWCを挙げたい。元々このメーカーは、エボーシュを改造していた時代からムーブメントの美観には手を加えていた。そして自社製ムーブメントを作るようになって以降、その仕上げはさらに改善され、デザイナーが加わった近年では、工業製品らしい清潔な見た目がいっそう強調されるようになった。
初出2015年。ダブルバレルと簡潔なペラトン式の巻き上げ機構、そしてシンプルな輪列を持つ次世代機。パワーリザーブは従来に同じだが、振動数が向上。また自動巻き機構の大部分をセラミックス素材(酸化ジルコニウム)に改めることで、自動巻き機構の寿命は大きく延びた。そのため理論上は交換の必要がない。自動巻き(Cal.52010)。31石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約7日間。
個人的な意見を言うと、手作業をふんだんに使った仕上げが優れたものになるとは限らない。工業的な手法であっても、適切に使えば手作業で仕上げた時計よりも良い見た目を得られるだろう。こういったアプローチで成功を収めたのが、ロレックス、パネライ、ブライトリングやIWCである。とりわけ近年のIWCは、ムーブメントの設計にデザイナーを加え、かつ最新の手法を投じることでムーブメントの美観を改善した。好例は最新の自動巻きムーブメント、Cal.52010だ。
ムーブメントで目を引くのは、大きく肉抜きした受けである。ダイヤモンドカットを用いて面取りすることで、肉抜きした内側に視線が集まるようにしている。また、高級機らしく面取りの幅は広い。かつてこのような仕上げを与えることは難しかったが、NC旋盤の普及により以前に比べて容易になった。この手法を得意とするのはパネライだが、IWCも負けてはいない。
ジュネーブ仕上げも面白い。縦ではなく、同心円状に施されたジュネーブ仕上げは、現在モーリス・ラクロアとIWCが好むものだ。縦に施すジュネーブ仕上げに比べて、ストライプの数を少なくできるため、仕上げの工数を減らせる。また、均一な模様を施しやすいのである。仕上げはいかにも工業的だが、工業製品であるIWCには、むしろこの方が相応しいように思う。
ペルラージュも良質だ。エボーシュをチューンしていた時代でも、IWCは社内にペルラージュを施す半自動機械を持っていた。そのノウハウがある上、今の同社は地板や受けをプレスではなく切削で作り、しかも表面をできるだけフラットに均している。ペルラージュの質が向上したのは当然だろう。
もっともこれは、工業的によくできたムーブメントであり、手作業をふんだんに使った工芸品とは自ずと異なる。ネジの仕上げは高級品とは明らかに違うし、ヒゲ持ちを固定するスティールのプレートも磨かれてはいるが、ブラックポリッシュ仕上げではない。しかし、全体を見てまったく違和感を与えないのがIWCがIWCたるゆえん。時計が分かっている人たちでなければ、決してこういった統一感を与えられないのである。ユーザー以上に、時計関係者の評価が高いのもむべなるかな。
2015年に刷新されたIWCの定番モデル。先代モデルとの外観の違いはわずかだが、ムーブメントは別物だ。ムーブメントの開発段階からデザイナーが加わることで、美観や仕上げも改善された。自動巻き(Cal.52010)。31石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約7日間。SSケース(直径42.3mm)。3気圧防水。(問)IWC Tel.0120-05-1868
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