「良い時計」の基準は、人によってさまざまだ。しかし分かりやすいポイントとして、仕上げやつくりが挙げられる。そんな観点から“良い時計の見分け方”を解説する「良質時計鑑定術」だが、今回は少し変わって「緩急調整機構」がテーマ。この機構の種類や、それぞれが時計にもたらすメリット・デメリット、そして各機構の見分け方から、良質な時計選びをひもといていく。
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広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2020年5月号掲載記事]
緩急調整機構から見る“良い時計”
Cal.PF110は、微動緩急針として知られるスワンネック型緩急針を採用する。緩急針を動かしてヒゲゼンマイの長さを変えるのは、他の緩急針に同じ。しかし、ネジを回して緩急針を動かし、“白鳥の首”の形をしたバネで押さえるため、緩急針の厳密な位置決めが可能である。ただし、現在は装飾的な要素が強い。高級機らしく、ヒゲゼンマイは巻き上げヒゲ、ヒゲ持ちも可動式の“腎臓型”である。
時計の緩急、つまり遅れ進みをどのように調整するのか。その手段はふたつしかない。ひとつはヒゲゼンマイの有効長を変えること。もうひとつはテンワの慣性を変えることである。前者が多くの時計に採用された緩急針であり、後者は最新の自社製ムーブメントが好んで使うフリースプラングだ。それぞれの機構にはメリットとデメリットが存在する。
緩急針のメリット、デメリット
Cal.PF110同様のディテールを持つのが、ショパールのCal.L.U.C 98.01-Lである。ただし、堅牢さと整備性を考えて、緩急針の移動は、スワンネック上のバネの押さえに内蔵された偏心ネジ(3つ並んだネジの真ん中)を回して行う。ネジを回すと、ブレードが飛び出て緩急針を押すという仕組みだ。製造コストはかかるが、ショパールらしい良心的な設計である。ケーシングした状態では調整しにくいという弱点をクリアしている。
多くの機械式時計が採用する緩急針。これは2本のヒゲ棒を使ってヒゲゼンマイの長さを変える機構である。これをヒゲゼンマイの終端(ヒゲ持ち)に近づけると、ヒゲゼンマイの有効長は長くなり、緩急は遅れとなる。逆に中心部に向けると有効長は短くなり、緩急は進みとなる。調整幅が大きく、調整も容易なことが普及し、長年にわたって使用され続けた理由だ。半面、「必要悪」と言われるように、緩急針にはデメリットも少なくない。ヒゲ棒がヒゲゼンマイの自由振動を抑えるため、等時性が安定しにくい。また衝撃を受けると、緩急針が移動して精度が変わりやすい。そしてヒゲ棒がヒゲゼンマイに当たるため、長期的な等時性も悪化する。
緩急針のデメリットを解消したフリースプラングテンプ
ヒゲゼンマイの長さを変えるのではなく、テンワに付いている錘(マスロット)を動かして緩急を調整するフリースプラング。ショパールのヴァリナー・テンプは、テンワのリムに2対のマスロットを取り付けることで、テンワにかかる抵抗の3分の2を占めるとされる空気抵抗を大きく減らしている。マスロットを回しやすいよう、テンワの受けに切り欠きを設けたのは、ショパールらしい配慮だ。
フライバック、垂直クラッチ、フリースプラング(ヴァリナー・テンプ)を持つ自動巻きクロノグラフ。2007年の発表以降、細かな改良を加え、3世代目に進化した。現行モデルは防水性が100mまで向上。自動巻き(Cal.L.U.C03.03-L)。45石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約60時間。タイタリットケース(直径42mm)。100m防水。世界限定100本。(問)ショパール ジャパン プレス Tel.03-5524-8922
こういったデメリットを解消したのが、フリースプラングテンプである。現在、大多数のモデルにフリースプラングを採用するのは、パテック フィリップ、ロレックス、ブレゲ、H.モーザー、オーデマ ピゲ、A.ランゲ&ゾーネ、パネライ、オメガ、IWC、ジャガー・ルクルトなどだ。
最新のムーブメントらしく、Cal.4302は緩急調整機構に緩急針ではなく、ジャイロマックス型のテンプを採用する。前作のCal.3120は調整用のマスロットがテンワから飛び出していたが、本作ではおそらく空気抵抗を減らすため、テンワと同じ高さに置かれた。マスロットは計3対。テンワの慣性モーメントは12.5mg・cm2と、Cal.3120の3倍近くあるため、携帯精度は非常に優れているはずだ。
量産型の腕時計ムーブメントに、初めて緩急針を用いないフリースプラングを採用したパテック フィリップ。小径の215 PSも、やはりお家芸の「ジャイロマックステンプ」を搭載する。小径のムーブメントはフリースプラング化に向かないという意見もあるが、優れた携帯精度を持つ一因は、明らかにフリースプラングに拠っている。基本設計は古いが、極めて優秀なムーブメントである。
フリースプラングテンプはヒゲゼンマイの長さを変えることなく緩急を調整するという、調整機構である。具体的にはテンワの重り(マスロットやチラネジ)の位相や位置を変えることで、テンワの慣性を変え、緩急を調整するというものだ。ヒゲ棒がヒゲの自由振動を妨げないため、理論上の等時性は極めて高い。また強い衝撃を受けても、ヒゲ棒とヒゲゼンマイが絡まない。現在、さまざまなメーカーがシリコン製のヒゲゼンマイを採用できた背景には、ヒゲ棒でヒゲゼンマイを挟まない、フリースプラングテンプの普及がある。
現在のA.ランゲ&ゾーネは、一部のムーブメントを除いて、緩急針を持たないフリースプラングテンプを採用する。写真のCal.L093.1も同様だ。スワンネック型緩急針風に見える部品は、可動式ヒゲ持ちの位置を動かすための機構。その証拠に、ヒゲ棒が存在しない。非常に大仰かつ紛らわしい構造を採用したのは、スワンネック型緩急針がA.ランゲ&ゾーネの伝統となったため。
もちろんデメリットもある。ひとつは調整幅の大きな緩急針に対して、フリースプラングの調整幅が小さいこと。そのため、かつてフリースプラングは精密に作られた高級機にしか載せられなかった。また、理論上は、テンワが小さいとメリットが出にくい。かのジュリオ・パピは「テンワの慣性モーメントが10㎎・²㎝以上ないと、フリースプラングテンプは意味がない」と語った。
2019年に発表された新生J12は、フリースプラングテンプ付きのCal.12.1を採用する。緩急針がないため衝撃に強く、ヒゲがらみを起こしにくい。スポーティーウォッチには最適だろう。また、テンプの受けを両持ちにすることで剛性を高めている。精度の調整はマスロットではなく、テンワの側面に取り付けられたチラネジで行う。ただし、へこませた部分に埋め込むことで空気抵抗を減らしている。
国産ムーブメントの最高峰が、Cal.9SA5である。チラネジで調整するフリースプラングテンプを採用するほか、ヒゲゼンマイの外端を調整できる回転式のヒゲ持ち、まったく新しい外端カーブを持つ巻き上げヒゲ、そして高さ調整が可能な両持ちのテンプ受けなど、精度を上げるための機構をすべて盛り込んでいる。やはり、空気抵抗を減らすため、チラネジはテンワのリムに埋め込まれた。
優れた緩急針
そして緩急針にも優れたものはある。微動緩急針と呼ばれるもので、細かい調整ができるスワンネック型とトリオビス型が好例だ。これらはネジにより緩急の精密な調整が可能である。また微動緩急針の多くは、ヒゲ棒の間隔が狭いため、等時性にも優れる。なお、トリオビスは登録商標であり、似たものはトリオビス型という。現在、スワンネック型緩急針はほとんど飾りであり、後述するエタクロンなどに後付けしたものは、美観以上の価値を持たない。
代表的な微動緩急針のひとつがトリオビス。ヒゲ持ちに差し込まれたビスを回して、緩急針を左右に動かすことができる。スワンネック型緩急針と同様、微調整が可能。ビスと噛み合うラックギア(歯竿)で緩急針を動かすため、比較的衝撃にも強い。現在は、ノモスのほか、ショパールやIWCなどが採用している。「トリオビス」はスウォッチ グループ傘下にあるメイシェ社の登録商標である。
量産エボーシュの多くが採用するエタクロンは、半微動緩急針に分けられる。これは非常に知られた緩急針だが、ヒゲ棒の間隔が大きい上、ヒゲを固定するヒゲ持ちや一体成形されたヒゲ棒が重いため、衝撃にも弱い。しかし、エタクロンはねじることでヒゲ棒とヒゲゼンマイの間隔を自由に変えられるため(アオリを変えられるという)、テンプの振り角が落ちても精度を安定させやすい。優れた時計師なら、ETAのエボーシュにクロノメーター級の精度を与えることは難しくないだろう。このテクニックを多用することで、ムーブメントの性能を高めたのが2000年以降のブライトリングである。
ETA7750は、ETAの標準的な緩急針であるエタクロンを採用する。これは微調整が可能な半微動緩急針である。緩急針先端の黄色い部品は固定部と一体成形されたヒゲ棒。左右にねじることで、Cal.9S27同様、アオリの調整が可能である。ヒゲゼンマイの外端の色が違うのは、焼き鈍して硬度を下げているため。現在は不明だが、かつてはニヴァロックス製ヒゲゼンマイの大きな特徴だった。
傑作、203.ARKTISの後継機。30気圧防水、-45℃から+80℃までの温度耐性などは同じだが、水中でもクロノグラフが使えるD3システムが加わったほか、特殊結合により回転ベゼルも外れにくくなっている。“トップ”グレードのETA7750を搭載。自動巻き(Cal.ETA7750)。25石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約46時間。SSケース(直径43mm)。30気圧防水。(問)ホッタ Tel.03-6226-4715
アオリのテクニックを磨き上げることで、ムーブメントの精度を高めてきたのがブライトリングである。ETA7750を改良したCal.13などで培われたテクニックは、自社開発ムーブメントのCal.01にも踏襲された。搭載するのは、エタクロン風の緩急針。エタクロン同様、アオリの調整が容易である。強い衝撃を受けても緩急針がずれにくいよう、緩急針を支える土台は極めて強固になっている。
グランドセイコーの9S6系と9S2系が搭載する緩急針も、アオリ調整ができる点はエタクロンに同じである。しかしこれはヒゲ棒の間隔がより狭い上、緩急針の取り付けトルクが強いため、衝撃にも強い。
小径のCal.9S27は、精度を向上させるために、細かな調整が可能な半微動緩急針を備える。T字型に見えるのは、アオリ(ヒゲ棒とヒゲゼンマイの間隔)を調整できる部分。左側の丸い偏心ネジを回して、アオリの調整が可能である。理論上は、振り角が落ちても精度を維持しやすい。かつての第二精工舎亀戸工場製ムーブメントが好んだディテールを最新の女性用ムーブメントにも採用した。
本誌でも絶賛したグランドセイコーの女性用自動巻きムーブメント。本作はその量産版を搭載する。主ゼンマイの巻き上げ効率が高い上、耐磁性能も良好で、パワーリザーブが長いという特徴を持つ。自動巻き(Cal.9S27)。35石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約50時間。18KRGケース(直径28.7mm、厚さ10.9mm)。10気圧防水。(問)セイコーウオッチお客様相談室 Tel.0120-061-012
グランドセイコーの高い精度は、ムーブメントの基本的な性能はもちろんだが、アオリ調整が可能な緩急針によるところが大きい。写真は、手巻きのCal.9S63の緩急針。しゃもじ状の部品にヒゲ棒が固定されており、左右にねじることでアオリを調整できる。この緩急針を改良したのがCal.9S27である。なお、緩急針自体の動きは、外周に目盛りを刻んだ左の偏心ネジを回して調整する。
緩急調整機構の見分け方
見分けづらい緩急装置を概念図で比較する。
❶は標準的な緩急針。針状の部品を左右に動かすことで、2本のヒゲ棒を埋め込んだ先端(狭義の緩急針)が動き、ヒゲゼンマイの有効長を変える。ヒゲ持ちに近い方が遅れで、遠ざかるほど進みになる。なおエタクロンとセイコータイプは、ヒゲ棒を取り付けた部分を回すことで、アオリを調整できる。
❷はフリースプラングテンプ。緩急針の代わりに、テンプ上の重り(マスロット)を回して位相を変え、精度を調整する。重りが外側に向かうと、テンプの慣性は増大し、遅れ傾向に。内側に向くと慣性は小さくなり、進み傾向となる。非常に優れた機構だが、採用は一部のメーカーに限られる。
❸古典的なチラネジ。今や大多数のチラネジは飾りだが、フリースプラング同様、テンワの慣性を変えることで、緩急の調整を行えるものもある。チラネジ(ミーンタイムスクリュー)を外側に出すとテンプの慣性が増え、遅れ傾向に。内側に向けると慣性が小さくなり、進み傾向となる。往年の高級機は、微動緩急針とチラネジを併用して、優れた精度を実現した。
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