「良い時計」の基準は、人によってさまざまだ。しかし分かりやすいポイントとして、仕上げやつくりが挙げられる。そんなポイントから“良い時計の見分け方”を解説する、良質時計鑑定術。今回は、機能面でも美観の面でも重要な役割を担う歯車にフォーカスする。
https://www.webchronos.net/features/119515/
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2020年5月号掲載記事]
「歯車」から見る“良い時計”
前回掲載した緩急調整機構ほど目立たないが、重要な役割を果たしているのが歯車である。小さいトルクで動く機械式時計の場合、歯車の出来栄えは性能を大きく変える要因になる。また、いくつかのメーカーは歯車を磨くことでムーブメントの美観を改善している。時計業界で普及したNIHS歯車を中心に、各社が採用する歯車とその仕上げを見ていこう。
整備性と精度を高めたパテック フィリップのムーブメント。ストップセコンドの追加、ローターとローター中間車の変更、筒カナにクラッチを追加したほか、3番車にLIGAで成形した歯車を採用する。歯車自体に弾性を持たせたため、秒針を動かす4番車を規制するバネが不要になった。その結果、理論上の振り角は向上している。パテック フィリップの採用によってLIGAで成形した歯車は今後、広まりを見せるだろう。
歯車の“歯型”
ヨーロッパではポピュラーな52週のカレンダー。これを追加したのが本作である。整備性を高めた新型の基幹キャリバーを搭載する、非常に魅力的な時計。自動巻き(Cal.26-330 S C J SE)。50石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約45時間。SSケース(直径40mm、厚さ10.79mm)。3気圧防水。(問)パテック フィリップ ジャパン・インフォメーションセンター Tel.03-3255-8109
美観を語る上でも、機能を語る上でも極めて重要なのが歯車である。この部品は軸の周りに歯を切ったカナと、幅広い車、そして細い軸にあたるカナで構成されている。
一般的に、高級機は指のような形をしたサイクロイド歯車と、その改良版であるNIHS型歯車を採用する。これはスイス製高級機の代表的な歯形で、トルクの伝達ロスが小さく、いかにも高級時計らしい形状を持っている。また、業界標準のため、歯を切るカッターも入手しやすい。もっともNIHSも、駆動効率という点では完全ではなかったらしい。現在は、ドイツのDINやスイスの時計メーカー12社が共同開発したSPYR(シュピール)といった、駆動効率のより高い新型歯形も使われるようになった。
モダンな設計を持つCal.4302だが、歯車(車およびカナ)には古典的なNIHSを採用する。新素材の採用にも距離を置く同社が、スイス時計業界の標準的な歯車を使うのは当然だろう。歯の素材は金メッキを施した真鍮。仕上げは同価格帯の高級機に同じだが、オーデマピゲは、車と噛み合うカナにブラックポリッシュ仕上げを与えることで、カナの光を車に反映させるようにしている。
ヴァシュロン・コンスタンタンも筆者の知る限り、ほとんどすべてがNIHSの歯車を持つ。非常に古典的な作りだが、かつてのムーブメントと違うのは、車のリムが太めであること。1940年代から50年代のムーブメントであれば、歯車はもっと細かっただろう。理由は諸説あるが、ムーブメントの高振動化が一因という意見もある。高級機だけあって、歯車以外の仕上げも申し分ない。
SPYRを用いるジャガー・ルクルトは、そのメリットとして、駆動効率の高さよりも、トルクの伝達にムラがない点を強調する。ただし、見た目はNIHSにほとんど同じである。また、軽い脱進機を使えば駆動効率を劇的に改善できるようになったため、歯車で駆動効率を稼ぐという手法は、今やポピュラーでなくなった。例外は、2019年に発表したオメガのCal.3861だ。これはNIHSを改良した、駆動効率の高い歯形を一部に採用する。なお日本のメーカーは、スイスのメーカーに対して歯車の設計がかなり自由だ。
スイスの高級機らしく、標準的な歯車を持つのがパテック フィリップである。一部のモデルではSPYRという新しい歯型を採用するが、基本設計を1970年代後半までさかのぼるCal.215 PSは従来に同じNIHS型であろう。高級機らしく、車部分のアミダにあたるウデも面取りされているほか、上面・下面にはサンレイ装飾が施されている。写真には載っていないが、当然カナも磨かれている。
4つの香箱を持つ「クアトロ」は、香箱と輪列をつなぐ車も重厚だ。素材は金メッキを施したベリリウム銅である。同素材は真鍮に比べて硬いため、力のかかる部分に使われる。こういった車は、普通、メッキを施したあとにカッターで歯を刻むため、部品の加工精度がそのまま現れやすい。やや見にくいが、非常に滑らかな歯に注目。目立たない部分だが、歯やカナの側面を丁寧に仕上げてある時計は、高級機といって間違いない。
安価なモデルになると、ETA型の歯車が一般的になる。これはNIHSとは違った歯型で、現在はETA73、ETA A、ETA Eといったプロファイル(歯型)が存在する。乱暴に言うと、限りなく三角形に近い歯型を持つ車は、ETA型と考えて良さそうだ。もっともETAでなくとも、生産性を考えたメーカーは、三角形もしくは、それに近い形状の歯を採用する傾向にある。三角形の歯は、単に噛み合えば良いというもので、効率は高くない。
現在のH.モーザーはNIHSの歯型を採用するが、かつて設計されたムーブメントは、NIHSよりも効率が高いDIN歯車を採用していた。見た目の違いはわずかだが、かつてのモーザーの大きな特徴であったことは間違いない。残念ながら面取りはダイヤモンドカットだが、ほぼミ・グラスの穴石や鏡面仕上げのカナ、ブラックポリッシュされたネジといった見応えのあるディテールを備えている。
旧「マユ」をほぼそのまま継承したのが本作である。価格は上がったが、見えない部分の品質も向上したので妥当か。H.モーザーの個性であるフュメダイアルを採用する。見応えのあるムーブメントは本作でも不変だ。手巻き(Cal.HMC321)。28石。1万8000振動/時。パワーリザーブ約3日間。18KRGケース(直径38.8mm)。3気圧防水。(問)イースト・ジャパン Tel.03-6274-6120
美観を語るなら、輪列に使われる歯車はサイクロイド型とNIHS型であるべきだろう。とりわけ、歯たけ(歯先と歯底の距離)が長く、ピッチ(歯間)の細いものは、いかにも高級時計らしい見た目をもたらす。対して、ETA型の歯車は、どのように仕上げてもあまり見栄えはしない。
高級時計の歯車の共通項
歯型はさておき、高級時計の歯車には共通した条件がある。カナとホゾが完全に磨かれていることで、最上級の場合は、カナがブラックポリッシュ仕上げになっている。もっともこれは、抵抗を減らすためというより、光を当てた際に、輪列全体を明るく光らせるためのものだ。ムーブメントに奥行きを与えられるため、厚みのある複雑時計では有用な手法として使われる。
アシンメトリーな造形が特徴のムーブメント。価格は控えめだが、手作業で施された深い面取りは切り立った出角を持つほか、地板と受けに施された梨地仕上げもかなり繊細である。肉抜きされたふたつの角穴車も、上面に輪掛け模様が施されるほか、わずかに面取りがされているのが分かる。この価格を考えれば、十分すぎるほどのディテールだ。非常に良心的な時計の好例だ。
優れた仕上げと実用性、そして戦略的な価格を両立した傑作。搭載するムーブメントは、クロノードを率いるジャン-フランソワ・モジョンとの共同開発によるものである。内容を考えれば価格は驚異的だ。手巻き(Cal.SXH1)。31石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約7日間。XOスティールケース(直径42.5mm)。5気圧防水。(問)ノーブル スタイリング Tel.03-6277-1604
また良質な歯は金メッキ処理がされ、ある程度の厚みがあり、表面には輪掛け模様(サークラージュ)が施されている。仮にETA型の歯車を持つムーブメントでも、こういった仕上げを持てば見応えのあるものになる。加えて、歯のアミダにあたるウデの内側を面取りすると、見た目はより高級機らしくなる。最上級のものは、車自体が真鍮ではなく金でできているが、現行品で採用するのは、おそらくヴティライネンのみだろう。金の歯は、実用性はないが、ブラックポリッシュのカナに同じく、輪列に光を集める効果がある。
優れたパフォーマンスを持つノモスのムーブメント。ただし歯車は、おそらくプゾー7001で使った歯型をそのまま転用したものだろう。時計業界でいうところのETA型の歯車である。これはNIHSなどと異なるまったく独自の歯車。生産性が高いため、多くのエボーシュは基本的にこの歯型を採用している。もっとも、車は肉厚であり、上面にはきちんと輪掛け模様が施されている。
歯車の見分け方
❶はさまざまな業種で用いられるインボリュート歯車である。大トルクに耐えられ、生産性も高いため、とりわけ自動車で用いられる。ただし、トルクの伝達ムラがあり、駆動効率が若干低いため(最低約90~92%と言われる)、小さなトルクで動く腕時計では基本的には使われない。もっとも、量産型の歯車(ETA型)は、インボリュートと後述するサイクロイドの折衷型と見なす設計者もいる。量産機の場合、高級機に比べてコストの制約が大きいため、歯車の形状はシンプルになるだろう。
❷高級時計に使われるサイクロイド型の歯車。1960年代に完成したスイスのNIHS型歯車もこの一種である。インボリュートに比べて駆動効率が高い(最高約95%と言われる)とされるが、フランソワ-ポール・ジュルヌのように「サイクロイド(及びETA型の歯車)もインボリュートも伝達効率は変わらない」と考える設計者もいる。ドイツのDINや、2000年代以降に広まったSPYRも、サイクロイド歯車の一種である。もっとも、時計業界が使うサイクロイド歯車は、今も昔も厳密なサイクロイドではない。事実1950年代の文献には、時計に使われる歯車はあくまで「サイクロイド風」という記述がある。またNIHSも、コンピュータのない時代に設計されたため、歯の形状はグラフィカルに処理されている。現在各メーカーは、サイクロイドをベースにした、効率の高い独自の歯車の開発に取り組んでいる。
https://www.webchronos.net/features/110623/
https://www.webchronos.net/features/110788/
https://www.webchronos.net/features/111211/