30年以上にわたって時計業界を取材してきたジャーナリスト菅原茂氏による、webChronosでの連載「スイス時間旅行−追想の90年代」。第3回は、1994年、「レベルソ」再興直後のジャガー・ルクルトだ。菅原氏がひと目ぼれしたバーゼル94での出展モデル、そして本社工場で聞き出した、同ブランドの“誇り”とは?
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Text & Photographs by Shigeru Sugawara
[2024年8月22日公開記事]
現場交渉も少なからず
1994年4月、スイスのバーゼルで開催された時計宝飾展「バーゼル94」のメイン会場ではIWCをはじめオーデマ ピゲやパテック フィリップ、ジャガー・ルクルト、タグ・ホイヤー、ロンジンなど10以上のブランドのブースを訪ねた。中にはアポなしの飛び込み取材もあった。その場合はブースの受付で取材日時を直接交渉するのだが、「今日の夕方なら」とか「明日の午前中なら可能かも」と、返答はけっこうアバウト。そして実際に行ってみると、今は商談中なので難しいとか、メディア対応の者が不在などの理由で断られ、何度も足を運ばざるを得ないこともあった。日本のメディア取材の急増した数年後には、事前のアポ入れで日時を確定し、会場で輸入代理店の関係者に案内してもらうパターンが一般的になり、効率よく取材を進めることができるようになったが、バーゼル94の頃はまだそこまで取材対応が整っていなかった。
ジャガー・ルクルト初取材
バーゼル94では、IWCとならんでジャガー・ルクルトが個人的に「推し」ブランドだったので、ぜひ取材してみたいと願っていた。しかし雑誌の取材予定表にジャガー・ルクルトはなく、会場でのアポ取りとなった。ブースはメインホールの比較的手前にあり、中くらいの規模の平屋である。エントランスで存在感を占めるIWCと同じように白を基調とした造りで、ブース壁面のウィンドウには「レベルソ」再評価を決定づけた「コンプリカシオン」シリーズが並び、通行する人々の目を引いていた。ところで前回のIWCの話で日本では「インター」と呼ぶ人が多いと書いたが、ジャガー・ルクルトも同じように時計関係者の間では「ルクルト」だ。では会場ではどうか。まず「ジャジェ・ルクルトル」と本来のフランス語で呼ぶ例は耳にせず、圧倒的にドイツ式の「イェガー」なのだった。ちなみにタグ・ホイヤーはほぼ「タゴヤ」である。IWCの「イーヴェーツェー」もそうだが、初期の取材ではスイス人が何を言っているのか分からなかったことも今では笑える思い出だ。
ジャガー・ルクルトのブースで応対してくれたのは、当時のゼネラルディレクター、すなわち最高責任者のアンリ-ジョン・ベルモン氏とセールスマネージャーのジャン-マルク・ケラー氏という、まさに2トップだった。彼らは、90年代に入って角型の「レベルソ」と丸型の「マスターコントロール」を2本柱にしてブランドのアイデンティティの強化を図ってきたことをまず熱く語り始めた。とくに、フランスからスイスに逃れてきたユグノーの家系で、シャフハウゼンに住みついた先祖にさかのぼり、祖父がIWCの時計職人というバックグラウンドをもつアンリ-ジョン・ベルモン氏は、人物的にも非常に興味深い。今ではあまりお目にかからないタイプの、根っからの時計好きという印象だった。
ジャガー・ルクルトの再生
94年当時、IWC、ジャガー・ルクルト、A.ランゲ&ゾーネの3つはLMH(LES MANUFACTURES HORLOGERES)というホールディングカンパニーの傘下にあった。単純に直訳すれば「時計製造会社」になるわけだが、キーポイントとなる「マニュファクチュール」を強調する意図がそこにあったのは間違いないだろう。LMHグループのトップを務めていたギュンター・ブリュームライン氏によって86年にジャガー・ルクルトに迎えられたベルモン氏は、ブリュームライン氏の指揮のもとで「レベルソ」の再興を託された。それはまたスイス時計の停滞期に活路を模索していたジャガー・ルクルトの再生にもつながる重要なプロジェクトでもあった。そして迎えた90年代、アンリ-ジョン・ベルモン氏が技術、ヤネック・デレスキヴィクス氏がデザインを担当し、「レベルソ」の誕生60周年を祝う91年に、機械式ムーブメントの複雑機構と現代的に再解釈したデザインを併せ持つ「レベルソ60」が発表された。これを皮切りにトゥールビヨンやミニッツリピーターなどを搭載する一連の「レベルソ・コンプリカシオン」が登場し、注目を浴びることになる。
レベルソ・デュオにひと目ぼれ
そんなアンリ-ジョン・ベルモン氏が会場のブースで披露したのが、表と裏にダイアルを配したデュアルタイムの「レベルソ・デュオフェイス」(当時の名称)だ。反転式ケースを活かし、複雑時計のシリーズでは初めて日常使いに適したシンプルで使いやすいモデルを考案したという。技術を誇る限定品のコンプリカシオンとは違って、これはリアルな実用複雑時計なので、「レベルソ」愛好者を一気に増やす起爆剤になりそうな気がした。セールスのケラー氏も世界の市場でヒットするに違いないとすでに会場で手応えを得ているという。筆者も可能ならばスイスで買って帰ろうかと思ったほどだ。ひと目で気に入り、個人的に購入を考えていると伝えたら、まだ少ししか生産していないので時間がかかるだろう、帰国してから日本の輸入代理店に相談してみてはどうかとケラー氏。ちなみに注文した「レベルソ・デュオ」(初代SSモデル)が手に入ったのは1年半後の95年の暮れも近い頃。あれから来年で30年、海外旅行に携行して使い続け、かけがえのない愛用品になった。
ジュウ渓谷の本社に行く
バーゼル94での会場取材をすべて終え、帰国が迫った4月下旬、運良くジュウ渓谷の本社工場を訪ねることができた。ホテルのあるスイス中部の時計都市ラ・ショー・ド・フォンからクルマでジュウ渓谷に向かった。今回も地図を頼りにルートを探っての自力ドライブだ。ジュウ渓谷は、10日ほど前に行ったIWCのシャフハウゼンとはまったく異なり、針葉樹の森と細長い湖水から成る田園風景が美しい場所。2年前のパテック フィリップ取材の際にも訪れているが、今回はジュネーブとは反対の西からのアプローチなので、別の景色を見ているかのようだ。
ジャガー・ルクルトの社屋は見つけやすかった。民家と農家、牧場などが点在するのどかなル・サンティエ地区ではかなり大きく目立つ建物がそれだ。出迎えてくれたのはコミュニケーション担当のふたりの女性スタッフ。ひとりは今もパテック フィリップで活躍するジャスミナ・ステーレさんだった。まず会議室で本日のスケジュールと会社概要の説明があった。午前中は各部門を巡りながら製造工程を見学する。微小なネジやカナ、歯車などのムーブメント部品の製造工程でマニュファクチュール、つまり自社一貫生産の実態を目の当たりにして感動を覚えたのだが、同行カメラマンは、部品が小さすぎて撮影困難だと嘆くのだった。設計部門にはコンピューターが導入され、新型ムーブメントの開発だけでなく、過去の手描き設計図のデータ化も同時に進められていた。
ランチは、ジュウ渓谷の時計関係者のたまり場で、湖の魚料理が名物というホテル・レストラン、ベルビュー ロシェレでの会食。食事中の会話でおもしろかったのは、フランスから賃金の高いスイスの時計会社に通勤する者も多く、逆にスイスから物価の安いフランスに買い物に出かける住民も少なくないという、国境を越えた人々の行き来だ。至近のジュラ山脈を超えればもうフランスなのだから、そんなことも簡単なのだと。
午後のスケジュールは組み立て部門の見学と、アンリ-ジョン・ベルモン氏とのインタビューだ。ジャガー・ルクルトは、時計メーカーとムーブメントメーカーの両面がある。インタビューではその点も聞いてみた。すると、個数ベースで自社ブランドの時計が60%、供給用ムーブメントが40%だという(当時の取材による)。「誇りに思うのは他社の時計にわが社のムーブメントが使われていること」と語っていた。スイス屈指の高級時計ブランドにジャガー・ルクルト製ムーブメントが多用されてきたのは紛れもない事実。20世紀初頭にさかのぼれば、カルティエの「サントス」誕生だって同社のムーブメント抜きには語れないのだ。別れ際に筆者が「レベルソ・デュオ」に大いに魅了され購入を決めたと告げると、ベルモン氏はいかにも嬉しそうだった。
菅原茂氏のプロフィール
1954年生まれ。時計ジャーナリスト。1980年代にファッション誌やジュエリー専門誌でフランスやイタリアを取材。1990年代より時計に専念し、スイスで毎年開催されていた時計の見本市を25年以上にわたって取材。『クロノス日本版』などの時計専門誌や一般誌に多数の記事を執筆・発表。休日はランニングと登山に精を出す。
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