時計愛好家の生活 I.H.さん「高校入学の時に買ってもらったのが、セイコーのルーセントです」

2024.12.08

本誌の読者であるI.H.さんとは長い付き合いである。彼が所有する時計には、驚くようなものも、レアなものもない。しかし筆者は、彼の時計との付き合い方から、さまざまなことを学ばされた。今回、彼に会いに行ったきっかけは、彼から届いたメッセージである。「今度、結婚するんですが、結納で贈る時計についてどう思いますか?」。

I.H.さん
団体職員。大学を卒業後、波瀾万丈の人生を歩んできたIさんは、2007年以降、コツコツと時計を収集するようになった。「時計に限らず、好きと思ったものは買うようにしています。そして手元に置いておきたいですね」。とはいえ、決して無理をしないのがIさん流。「自分が維持できない時計は持たないですね」。新居ではコレクション部屋を希望する彼だが、果たしてその願望は叶うや否や?
三田村優:写真 Photographs by Yu Mitamura
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2018年3月号掲載記事]


「彼女と話し合った結果、結納返しは時計ではなく家を買うことにしました」

Ref.810

新居の建築予定地にたたずむIさん。彼の腕に光るのは、IWCの傑作、Ref.810である。名機Cal.89を防水ケースに収めたこのモデルは、とりわけ実用的なアンティークを好む人たちに好まれてきた。「長らくIWCを欲しいと思っていたんです。地味な時計ですが、1日使ったら良さが分かりましたね」。いかにもIさんらしい選択だ。

 四国に住むIさん。年齢はおよそ40歳。彼の人生は、聞くだに波瀾万丈だ。大学卒業後、彼は自動車ディーラーに就職し、やがてある製造会社の下請け工場に移った。しかしリーマンショックで仕事が激減したため、故郷に戻り、検針員の職に就いた。だが、業務の効率化で仕事がなくなると聞いた彼は、転職を決意。ハローワークで見つけたクリーニング会社の代理店に就職した。「リーマンショックと東日本大震災の影響は大きかったですね。私の人生は、世の中に飲まれっぱなしでした」と彼は苦笑する。普通、これだけ仕事を変えたら、転職はかなり難しい。しかしIさんは、必ず次の転職先を見つけてきた。彼が誠実だったため、だろう。

 Iさんとの付き合いは、何年になるかよく覚えていないが、彼が節目節目に時計を買う際には、必ず連絡をいただき、あれこれ時計の話をしてきた。にもかかわらず、Iさんがどういう時計を買ってきたのかは、きちんと聞いたことがなかった。

「時計を買うようになったのは、2007年ですね。工場で働く際に、時計は必要だということで手に入れました。そこで時計にハマり、翌年の2月に、ハミルトンのジャズマスターを買いました」

セイコー アルバ、オリエント スリースター デイデイト、ハミルトン ジャズマスター、G-SHOCK DW-5600E

Iさんの腕上を飾ってきた“ビジネスウォッチ”。左から、セイコー アルバ(2014年購入)、オリエント スリースター デイデイト(14年購入)、ハミルトン ジャズマスター(08年購入)、カシオ G-SHOCK DW-5600E(09年購入)。ジャズマスターはIさんを機械式時計の世界に誘った時計であり、G-SHOCKは仕事上の主な相棒である。面白いのは、左のアルバ。奇しくも祖父が使っていたモデルと、まったく同じだという。手前に見えるのは、G-SHOCK用の交換ベルト。2014年に交換したが、その際、オリジナルのストラップは廃棄せず、保管してある。

 彼が今までに入手した時計はトイウォッチを含めると50本以上。それぞれの時計に対して、彼はいつ、どこで、どんなタイミングで買ったのかをはっきりと覚えている。

「まず思い出があり、そしてそこにものが付随する。時計とは一緒に仕事をしてきた仲間ですから、買えない時期でも、時計を売りたいとは思わなかったですね」。彼の時計史は、そのままIさんの人生である。

「高校入学の時に買ってもらったのが、セイコーのルーセントです。長らく壊れていましたが、2011年に修理しました。買い直した方がいいよ、と言われたのですが」。続いて買ったのはセイコーのアルバ。これは弟に譲り、行方不明になったらしい。時計に目覚めたきっかけは、ETA2824-2入りの「ジャズマスター」だった。「手放せない存在ですね。今はメインで使っています」。彼が買ったのは08年。以降2回オーバーホールをしており、現在の日差は2秒以内だという。彼はこのモデルでハミルトンの魅力に目覚め、ある時計店の移転セールで、もうひとつハミルトンを入手した。やはりこれも2回修理している。

無銘のアストロマティック

Iさんはトイウォッチを含む変わり種も数多く所有している。これは1970年代半ばに製造された無銘のアストロマティック。時間が進むと、“Luck” “Love” “Business” と窓内の色が変わり、その時間のバイオリズムを示す。ただのジョークウォッチだが、今見ても面白い。ちなみに、この時計をIさんに紹介したのは筆者である。

「時計って一緒に働いてきた仲間ですから、修理の際は、パッキンひとつも捨てたくないんですよ。基本的に部品は全部回収しますね」。そう聞くと、かなりの原理主義者に思えるが、実際のIさんは、実に穏やかな人だ。「もの自体は何でもいいんですよ。大事なのは思い出なんです」。

 もっとも、本誌を熱心に愛読するだけあって、彼は相当な時計好きだ。さらっと見せてくれたのは、ハミルトンの傑作「ボルトン」である。購入は7年前のこと。

「アンティークが欲しいと思い、eBayで落札しました。搭載するムーブメントは982です。その後、修理のためにドナー用ムーブメントを4つ買い、3つは残っていますね」。11年といえば、彼が生活で大変だった時期だ。しかし、Iさんはボルトンを買ったのである。

セイコー アルバ、セイコー ルーセント、セイコー レディスポーツ

思い出たち。左上から時計回りに、祖父が使っていたセイコー アルバ。「自宅にいる時、いつも着けていた時計です。形見分けの時にもらいました。これだけは手放してはいけない時計だと思っています」。製造年月は1995年8月。コンビネーションモデルは、セイコーのルーセント。高校入学の際に買ってもらったモデルである。2011年にオーバーホール済み。そして、ピンク色のストラップを付けたのが、Iさんの母が使っていたセイコー レディスポーツ。製造年月は1973年の1月。オーバーホールの際、風防も在庫のあったオリジナルに交換した。

 転機が訪れたのは、15年だった。クリーニング会社の代理店を辞め、ある団体に転職した彼は、すぐに事務長に抜擢された。Iさんの能力と人柄を考えれば妥当だが、彼の人生は公私ともに大きく変わった。「団体で出掛けた旅行で、たまたま事務員の女性と知り合い、付き合うことになったんです」。思い出に時計を寄り添わせてきた彼は、翌年の11月、彼女にロンジンのレディスモデル、プリマルナを贈った。

「彼女が部屋にある『クロノス日本版』を読んで、気に入ったモデルに付箋を貼っていくんです。正直、センスあるなあと思いましたよ」。やがて結婚を考えるようになった彼らが、リングを買おうか、時計を買おうか迷ったのは当然だろう。そして時計の選択肢として挙がったのが、ブライトリングの傑作、モンブリランとギャラクティックだった。筆者がIさんから相談を受けたのは、その時である。「結納に時計を贈りたいけどどう思われますか?」。筆者は確かこう答えたはずだ。どんなシチュエーションで使うのか、買った後、時計を維持できるのか、そして腕に載せてしっくりくるのかを考えて選ぶべき、と。

ハミルトンのボルトン、チェコスロバキアのプリム

Iさんのアンティークウォッチコレクションの一部。左はハミルトンの大傑作ボルトン、右はチェコスロバキアのプリムである。ほかにも、ソ連製のポヴェタやアメリカ製のロードエルジンなど、渋い時計も隠し持っている。いずれも2011年購入でオーバーホール済み。掲載する写真が示す通り、彼は一貫して3針モデルを好む。現行で欲しいモデルはIWCのインヂュニアもしくはポートフィノだという。

 数日後、彼からメッセージが届いた。「彼女と話し合った結果、ブライトリングではなく家を買うことになった」とのこと。一戸建てを新築して、入居日に入籍するのだという。「覚悟を見せるつもりで家を建てます」と彼は苦笑した。

 一通り話を聞いた後、新居を建てる高台の敷地を見せてもらった。そこには彼の時計コレクション同様、心に残るような家が建つことは想像に難くない。2007年以降、思い出を時計と共に紡いできたIさんだが、人生の転機に、時計と天秤にかけて選んだのは、伴侶との思い出そのものだった。こういう理由で時計を買わないのなら、筆者は大歓迎だ。どうぞIさん、末永くお幸せに。

ハミルトンのカーキ、ckウォッチのボールド

左から、時計店の移転セールで買ったハミルトンのカーキ(2009年12月購入)と、2007年12月に入手したckウォッチのボールド。酷使しているのに程度がいいのは、きちんとメンテナンスをしているため。「ケースに傷が入ると自分でポリッシュするんです。ckはサンドペーパーとコンパウンドで磨きました」。後ろに見えるのは私物のヒューストンマウンテンパーカー。サバイバルゲームを好む彼は、アウトドア系のアイテムで身を固めている。


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