本誌の読者であるI.H.さんとは長い付き合いである。彼が所有する時計には、驚くようなものも、レアなものもない。しかし筆者は、彼の時計との付き合い方から、さまざまなことを学ばされた。今回、彼に会いに行ったきっかけは、彼から届いたメッセージである。「今度、結婚するんですが、結納で贈る時計についてどう思いますか?」。
団体職員。大学を卒業後、波瀾万丈の人生を歩んできたIさんは、2007年以降、コツコツと時計を収集するようになった。「時計に限らず、好きと思ったものは買うようにしています。そして手元に置いておきたいですね」。とはいえ、決して無理をしないのがIさん流。「自分が維持できない時計は持たないですね」。新居ではコレクション部屋を希望する彼だが、果たしてその願望は叶うや否や?
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2018年3月号掲載記事]
「彼女と話し合った結果、結納返しは時計ではなく家を買うことにしました」
四国に住むIさん。年齢はおよそ40歳。彼の人生は、聞くだに波瀾万丈だ。大学卒業後、彼は自動車ディーラーに就職し、やがてある製造会社の下請け工場に移った。しかしリーマンショックで仕事が激減したため、故郷に戻り、検針員の職に就いた。だが、業務の効率化で仕事がなくなると聞いた彼は、転職を決意。ハローワークで見つけたクリーニング会社の代理店に就職した。「リーマンショックと東日本大震災の影響は大きかったですね。私の人生は、世の中に飲まれっぱなしでした」と彼は苦笑する。普通、これだけ仕事を変えたら、転職はかなり難しい。しかしIさんは、必ず次の転職先を見つけてきた。彼が誠実だったため、だろう。
Iさんとの付き合いは、何年になるかよく覚えていないが、彼が節目節目に時計を買う際には、必ず連絡をいただき、あれこれ時計の話をしてきた。にもかかわらず、Iさんがどういう時計を買ってきたのかは、きちんと聞いたことがなかった。
「時計を買うようになったのは、2007年ですね。工場で働く際に、時計は必要だということで手に入れました。そこで時計にハマり、翌年の2月に、ハミルトンのジャズマスターを買いました」
彼が今までに入手した時計はトイウォッチを含めると50本以上。それぞれの時計に対して、彼はいつ、どこで、どんなタイミングで買ったのかをはっきりと覚えている。
「まず思い出があり、そしてそこにものが付随する。時計とは一緒に仕事をしてきた仲間ですから、買えない時期でも、時計を売りたいとは思わなかったですね」。彼の時計史は、そのままIさんの人生である。
「高校入学の時に買ってもらったのが、セイコーのルーセントです。長らく壊れていましたが、2011年に修理しました。買い直した方がいいよ、と言われたのですが」。続いて買ったのはセイコーのアルバ。これは弟に譲り、行方不明になったらしい。時計に目覚めたきっかけは、ETA2824-2入りの「ジャズマスター」だった。「手放せない存在ですね。今はメインで使っています」。彼が買ったのは08年。以降2回オーバーホールをしており、現在の日差は2秒以内だという。彼はこのモデルでハミルトンの魅力に目覚め、ある時計店の移転セールで、もうひとつハミルトンを入手した。やはりこれも2回修理している。
「時計って一緒に働いてきた仲間ですから、修理の際は、パッキンひとつも捨てたくないんですよ。基本的に部品は全部回収しますね」。そう聞くと、かなりの原理主義者に思えるが、実際のIさんは、実に穏やかな人だ。「もの自体は何でもいいんですよ。大事なのは思い出なんです」。
もっとも、本誌を熱心に愛読するだけあって、彼は相当な時計好きだ。さらっと見せてくれたのは、ハミルトンの傑作「ボルトン」である。購入は7年前のこと。
「アンティークが欲しいと思い、eBayで落札しました。搭載するムーブメントは982です。その後、修理のためにドナー用ムーブメントを4つ買い、3つは残っていますね」。11年といえば、彼が生活で大変だった時期だ。しかし、Iさんはボルトンを買ったのである。
転機が訪れたのは、15年だった。クリーニング会社の代理店を辞め、ある団体に転職した彼は、すぐに事務長に抜擢された。Iさんの能力と人柄を考えれば妥当だが、彼の人生は公私ともに大きく変わった。「団体で出掛けた旅行で、たまたま事務員の女性と知り合い、付き合うことになったんです」。思い出に時計を寄り添わせてきた彼は、翌年の11月、彼女にロンジンのレディスモデル、プリマルナを贈った。
「彼女が部屋にある『クロノス日本版』を読んで、気に入ったモデルに付箋を貼っていくんです。正直、センスあるなあと思いましたよ」。やがて結婚を考えるようになった彼らが、リングを買おうか、時計を買おうか迷ったのは当然だろう。そして時計の選択肢として挙がったのが、ブライトリングの傑作、モンブリランとギャラクティックだった。筆者がIさんから相談を受けたのは、その時である。「結納に時計を贈りたいけどどう思われますか?」。筆者は確かこう答えたはずだ。どんなシチュエーションで使うのか、買った後、時計を維持できるのか、そして腕に載せてしっくりくるのかを考えて選ぶべき、と。
数日後、彼からメッセージが届いた。「彼女と話し合った結果、ブライトリングではなく家を買うことになった」とのこと。一戸建てを新築して、入居日に入籍するのだという。「覚悟を見せるつもりで家を建てます」と彼は苦笑した。
一通り話を聞いた後、新居を建てる高台の敷地を見せてもらった。そこには彼の時計コレクション同様、心に残るような家が建つことは想像に難くない。2007年以降、思い出を時計と共に紡いできたIさんだが、人生の転機に、時計と天秤にかけて選んだのは、伴侶との思い出そのものだった。こういう理由で時計を買わないのなら、筆者は大歓迎だ。どうぞIさん、末永くお幸せに。