香港のビジネスの中心地区であるセントラルの高層ビルに自身の会社のオフィスを持つA.T.さん。今や世界の金融業を牽引する中心地のひとつで活躍するTさんだが、時計蒐集をはじめたきっかけは、今とは正反対のまだ金銭的に余裕のなかった約20年前に遡るという。当時、徐々に高級機械式時計の人気が高まりつつあった時代、Tさんはまだ学生だったために、そうした世間の風潮に乗ることができず、遠巻きに眺めるしかなかったという。そんな時代から、いかにして今の成功を掴んだのだろうか?

1974年生まれ。大学を卒業後、投資銀行で約20年間、M&Aを専門に投資の経験と実績を積む。独立後、投資とリサーチ、コンサルティングを行う国際金融会社を設立する。時計に対する根源的な欲求にしたがって、好きなモデルは“全部買い”を鉄則とする。仕事が忙し過ぎて、多くの時計愛好家のように、スイスの本社工房を訪れる余裕はまだない。
Photographs by Eiichi Okuyama, Yu Mitamura
鈴木幸也(本誌):取材・文 Text by Yukiya Suzuki (Chronos-Japan)
「まだ何者でもなかった時代に恋い焦がれた憧憬。それが時計趣味の原点」
「当時のことは、よく覚えています。買いたい時計があっても、まだ学生の身分だったために満足に買うことができませんでした。その時に欲しいと思ったロレックスやパテックフィリップは、今でもとてもよく覚えています」
その経験と思い出が脳裡に焼き付いているのだろうか? Tさんのオフィスの社長室に通され、彼のコレクションを目の当たりにしたとき、その豪胆で独特な買い方に、かつての自由に買うことができなかった時代の記憶への“復讐”ではないのか?と勘繰ってしまうほどであった。
「基本的に気に入ったモデルがあると、そのモデルに存在するすべてのケース素材を“全部買い”します。ダイアルのバリエーションも気に入ったものであれば、同じモデルであっても気にせずにすべて買います。でも昔と違って、ひとつの時計を大切にずっと着用するようなことはありません。むしろ、たくさんの時計をアクセサリーのように、次から次へと着け替えます。時計でありながら、腕上で時を刻み、時を知るための道具という目的ではないのです」

実際、Tさんの実感としても、ここ数年は高級時計を集中的に買ったという想いが強いようだ。
「確かに、この2〜3年で20本以上の高級時計を買っています。自分でもそれを自覚しています。よく高級時計を“資産価値”として買うという人の話を耳にします。しかし、実際に本業として国際金融を中心に投資を生業にしているプロフェッショナルから言わせてもらうと、それは不正確で間違った考え方としか言いようがありません。つまり、高級時計に投資して儲けようとするのはとても効率が悪いということです。具体的な数字を挙げて説明すると、現在、私の通常業務である投資ビジネスでは平均的に15〜20%の利益率をターゲットにしており、実際にその成果を上げています。対して、高級時計に投資して、これだけの利益率を得ることはとても大変なことです。投資に見合った利益を回収するには時間がかかりすぎて、正直、私は待ちきれません」

果たして、どうしたら、Tさんのように、これだけの高級時計を買うに値するだけの成功を、ビジネスで収めることができるのだろうか? 今や香港を代表するセントラルの金融中心地区に自身のオフィスを持つまでの経緯を聞いてみた。
「大学を卒業した後は、投資銀行で企業間の買収と合併すなわちM&Aを約20年も専門にやってきました。その経験を基に独立して起業し、今の会社を興したのです。今、私の会社では、国際金融への投資を中心に6部門で投資・アクティブリサーチ・コンサルティングを行っています」

言うまでもなく、香港は今や世界の金融中心地のひとつであると同時に、世界最大のウォッチマーケットでもある。その香港で成功を掴んだ数少ない人間が、いかにして時計を買うのか? その買い方は決して、尋常ではないかもしれない。それでも、いわゆるバブルがはじけた後、“失われた20年”という長きにわたるデフレの時代を過ごしてきた日本人からすると、香港でのビジネスは、やはりハイリスク・ハイリターンであるのは疑う余地がない。だからこそ、Tさんのように、ビジネスが上げ潮の時には、堂々とそれに見合った消費を行うこと。それがまた次のビジネスと利益を生み出すこと。大きく使って、大きく育てる、という考え方を素直に信じ、行動に移せること。それがとても新鮮に目に映る。

とはいうものの、コレクションボックスに収まるこれだけの時計を、Tさんは普段、どうしているのだろうか?
「毎日、身に着ける時計は替えていますが、いま一番身に着けることが多いのは、F.P.ジュルヌのジェイドダイアルのトゥールビヨン・スヴランです。理由は、ダイアルの色をとても気に入っているからです。特に、仕事で着けることが多いですね。逆に、仕事がオフの時にはリシャール・ミルを着けていることが多いですね。パーティーなどではあえて、パテック フィリップの永久カレンダークロノグラフを着けます。実は、これが思いのほか〝ステルスウォッチ〞なのです。自分としては、パテック フィリップを身に着けていて、とても高い満足感を得られているのに、時計のことを聞かれることがほとんどないので、私はいつも“ステルスウォッチ”と呼んでいるのです」
物凄いスピードで、ほとんど一通り高級時計の道を駆け抜けてしまったように見えるTさんに、次に欲しい時計を聞いてみた。
「これから私が欲しい時計は、先ほど話した“ステルスウォッチ”を超えるパテックフィリップのミニッツリピーターですね。そして、余裕があれば、F.P. ジュルヌのグランソヌリも欲しい。理由は、パテックフィリップのリピーターとは異なる音量と音質が気に入っているからです」
今や買おうと思えば何でも買える立場になったTさん。それでも、まだ欲しい時計があると言う。その“健全な物欲”は今や日本人が忘れつつあるモチベーションの原風景なのかもしれない。