レ・キャビノティエ部門が作り上げた究極のタイムピースが「レ・キャビノティエ・ウェストミンスター・ソヌリ-ヨハネス・フェルメールへ敬意を表して-」だ。特別にお披露目された実物は、言葉を奪うほどの凄みに満ちている。
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
Edited by Yukiya Suzuki (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2025年1月号掲載記事]
レ・キャビノティエウェストミンスター・ソヌリ-ヨハネス・フェルメールへ敬意を表して-
ヴァシュロン・コンスタンタンのユニークピースであるレ・キャビノティエ。歴史に残る傑作は数え切れないほどあるが、心に残る時計を挙げるならば、このモデルにとどめを刺す。即ち「レ・キャビノティエ・ウェストミンスター・ソヌリ-ヨハネス・フェルメールへ敬意を表して-」(以降フェルメール)だ。
「理論上は入手不可能なものを絶えず求める」世界的なコレクターの要望から生まれたユニークピース。グラン・ソヌリ、プチ・ソヌリ、ミニッツリピーターを搭載するほか、5つのハンマーとゴングでビッグベンの全調律を完全に再現する。手巻き(Cal.3761)。58石。1万8000振動/時。パワーリザーブ約80時間(グラン・ソヌリモードでは最低約16時間)。18KYGケース(直径98mm、厚さ32.6mm)。ユニークピース。
同社のレ・キャビノティエ部門が作り上げた傑作たちが、お披露目されることは極めて少ない。基本的に持ち主が公開を望まないためだ。しかしクロノス日本版編集部は、持ち主の厚意により、傑作中の傑作であるフェルメールを見る機会を得た。筆者はこの時計に注目してきたし、原稿も書いてきた。しかし実物の佇まいは到底言い尽くせないものだ。
発注主は、正真の傑作ばかりを収集してきたコレクターである。詳細は明かせないが、普段使いの時計でさえも、博物館に恭しく飾られるようなものばかり。しかしそんな彼でさえも、夢のような時計には出会えなかったという。時計に魅せられた彼が、歴史に残るドリームウォッチを作ろうと考えたのは必然だった。
彼は情報を集め、審美眼を磨き、満を持してヴァシュロン・コンスタンタンに注文を出した。要求は「ベストなエナメルを載せた、ウェストミンスター・チャイム付きの時計を作ること。時間とお金に糸目はつけない」。
世界的なコレクターとして、彼はさまざまな複雑時計を見もしたし、手にしてきた。しかしそんな彼が夢見てきたのは、多くの機構を満載した「ありきたり」な複雑時計ではなく、純粋だが極め付きに出来の良いコンプリケーションだったのである。もっともそれはビッグベンの全旋律を5つのゴングと5つのハンマーで再現するウェストミンスター・ソヌリというから常識外だ。「普通に考えたら、これは絶対に作れない時計ですね。正直、私の注文は断られると思いましたよ」と注文主が語ったのは当然だろう。
しかし、ステンレススティール製のミニッツリピーター(当然ユニークピース)や、「著名な作曲家へのオマージュ」の15点限定モデル(実際に製造されたのは11点)、そして歴史的な傑作を多く所有する発注主の野心的な注文はヴァシュロン・コンスタンタンの創造欲を刺激するには十分だった。
計画が始まったのは2012年のこと。しかし、プロジェクトは大きく遅れ、納品は21年の10月にずれ込んだ。理由は、発注主の希望が途方もなかったためだ。「私はフェルメールが好きなのです。ですから、エナメルで『真珠の耳飾りの少女』を再現しようと考えました」。
彼とヴァシュロン・コンスタンタンが選んだのは、世界最高のエナメル職人であるアニタ・ポルシェ。発注者の所有する著名な作曲家へのオマージュのエナメル文字盤を、彼女が手掛けたことを思えば、この人選は当然だろう。ちなみにポルシェは直径31mmの文字盤を作るのに3カ月を要した。対して、フェルメールのケースバックは98mmもある。彼女は18年からエナメルのプロジェクトを始め、2年をかけて「真珠の耳飾りの少女」の再現に成功した。時間がかかった理由はサイズに限らない。例えば背景に使う色は7種類。暗いエナメルは酸化しやすいため、工程の安定が難しかったとヴァシュロン・コンスタンタンは説明する。加えてターバンの各層を仕上げるには最低2週間もの期間が必要だ。発注者は語る。「納品が遅れた大きな理由はエナメルです。アニタでさえも、これだけ大きなミニアチュール・エナメルを手掛けることはなかったですからね」。
ウェストミンスター・チャイムを備えるムーブメントも、エナメルに負けないほど凝ったものだ。ちなみにヴァシュロン・コンスタンタンは、15年のRef.57260でウェストミンスター・チャイムを実現していた。これが傑出していた理由は、5つのハンマーと5つのゴングに加えて、4つのラックで音の順序と響きを大きく改善した点にあった。
フェルメールが搭載するキャリバー3761が、この優れた設計によったのは当然だろう。しかしムーブメントの基本設計は大きく変更されている。理由のひとつは、発注者がレギュレーターを好まなかったため。結果、ヴァシュロン・コンスタンタンは輪列を変更し、新しいムーブメントを起こすことになった。もうひとつの理由が音である。スプリットセコンドクロノグラフといった付加機構を持たないフェルメールは、リピーターとソヌリの機構にいっそうのスペースを割けた。結果、ミニットスネイルは拡大され、動きが安定するよう一部レバーの取り回しが変更されたほか、動きを規制するピンなどが追加されている。ハンマーも別物である。当初は5つがスティール製だったゴングは、音質を改善するため、そのふたつが違うスティール合金に変更されたのである。チャイミング機構を調速するサイレントガバナーにも手が加えられた。マルタ十字をあしらった慣性ガバナーがソヌリやリピーターを調速するのは57260に同じだが、おそらくは慣性が大きくなるように改められている。つまりヴァシュロン・コンスタンタンは、57260の傑出したチャイミング機構を、さらに昇華させたわけだ。
発注者の執念を感じさせるのが、ムーブメントの仕上げである。フェルメールのプロジェクトに際して、発注者はこういう注文を加えた。「ムーブメントの仕上げはRef.57260を超えること」。ヴァシュロン・コンスタンタンが威信をかけて作り上げた57260の仕上げは、そう言って差し支えなければ、同社が手掛けた時計の中で最も傑出したものだ。しかし発注者は、さらに超えることを求めたのである。曰く「ムーブメントの仕上げは、これまでのどの時計よりも細かく、歯の1本1本まで仕上げなければならない」。
かつて筆者は発注者に呼ばれ、どういうムーブメントが良い仕上げなのかを説明したことがある。面取りや筋目仕上げ、穴石の形などなど。その際のコメントが生きたとは思えないが、そこまでして理想の時計を求める発注者に、レ・キャビノティエの開発チームが感銘を受けたは間違いない。事実、彼は幾度となく、ヴァシュロン・コンスタンタンと仕上げや仕様の打ち合わせを繰り返した(こういう時計の発注者としては例外的だ)。結果、ムーブメントの一部の受けは面取りがいっそう深くなったほか、ペルラージュもより均一になり、穴石の周りもすべて鏡面で仕上げられるようになった。
ヴァシュロン・コンスタンタンは明言しないが、ムーブメント開発チームの思いはフェルメールの地板に設けられたフランソワ・コンスタンタンの言葉であり、メゾンのモットーである「できる限り最善を尽くす。そう試みることは少なくとも可能である」にも明らかだ。筆者の知る限り、創業者の言葉を刻んだヴァシュロン・コンスタンタンのムーブメントは、おそらくこれが初であり、以降もないのではないか。
これほどの時計であるから、ケースも抜かりがない。例えばケースの外周に施されたドットは、まず正方形の部品を配置し、それを手作業で半玉状に加工し、ダイヤモンドペーストで磨いていく。またアカンサスの葉や花の立体感を強調するため、中空の線が刻み込まれた。ケースの外周にアカンサスを刻んだのは、これが額縁によく使われるモチーフのためだ。発注者は、ケースを「真珠の耳飾りの少女」を彩る額縁としたのである。
途方もない時間とコストを費やして生まれたフェルメール。世の中には、これよりも複雑な時計も高価な時計も存在する。しかし、これほど発注者と作り手の情熱が共鳴して生まれた時計はほかにないだろう。発注者は苦笑しながらこう語った。「これほどの時計を手にしたら、もう時計に興味はなくなりましたよ」。
広田ハカセが「唸ったポイント!」
まさか、あの「フェルメール」を実際に見られる日が来るとは思ってもみなかった。これは、史上最も手の込んだチャイミングウォッチ。フェルメールの絵をエナメルで再現するという豪奢さもさることながら、搭載するムーブメントも傑出している。正直、鳴り物の音量と音質を考えれば、腕時計は懐中時計にずっと及ばない。
その懐中時計で、音量と音質を究極まで突き詰めた本作は、ムーブメントひとつを取っても歴史に残る時計である。稀有な審美眼を持つ注文主と、それに応えたヴァシュロン・コンスタンタンが生み出した奇跡の傑作。正直、これくらいの時計になると、すべての解説は野暮でしかない。ただただ、ディテールをご堪能あれ。