ドレスウォッチなのにオタク時計? デザインにうるさいライターが奇跡の1本と評するパテック フィリップ Ref.5170J

FEATUREその他
2024.12.29

時計専門誌『クロノス日本版』のライター/エディターを対象とした持ち回り企画「私の思い出の1本」。本業はデザイナーながら、外部ライターとしてクロノス日本版/webChronosでも活躍する渡邉直人が紹介するのは、パテック フィリップの男性向け腕時計としては初めて自社設計の手巻きクロノグラフが搭載された「Ref.5170J」だ。

パテック フィリップ「Ref.5170J」

渡邉直人:文・写真
Text & Photographs by Naoto Watanabe
[2024年12月29日公開記事]


モノ軸で選んだ結果たどり着いた時計

 中学生の頃に機械式時計に興味を持ち、イチ時計ファンとして長い年月を過ごすうち、いつの間にか時計業界に足を踏み入れ、ついには時計の設計にまで手を出し始めた筆者だが、時計選びは常にモノが主軸だ。

 広告分野の仕事が長かったこともあり、正直ブランディングやストーリーには関心がない。そんな確かめようのない不確実な価値より、自分自身の求めるデザインや仕上げ、堅牢性、操作感触が得られるかどうかの方が重要というのが基本指針だ。そのため、いわゆる王道人気時計からは少し外れたモデルを選ぶことも多くなる。今回紹介するパテック フィリップの「Ref.5170J」もまた、一般的な認知度は低いモデルだろう。

パテック フィリップ Ref.5170J

パテック フィリップ「Ref.5170J」
手巻き(Cal.CH29-535 PS)。33石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約65時間。18KYGケース。3気圧防水。


パテック フィリップ初の自社設計手巻クロノグラフ搭載腕時計

 2010年に発表された本作は、パテック フィリップがそれまで手巻きクロノグラフに用いてきたレマニアCal.2310ベースのCal.CH27-70ではなく、自社設計のCal.CH29-535 PSを男性向けとして初めて搭載した記念碑的なモデルだ。そのため、ケース形状やプッシャー形状、文字盤上のインデックスや針の形状・配色などデザイン要素の多くが、1934年に発表された同社の伝説的な2カウンタークロノグラフモデル「Ref.130」から引用されている。

 発表当時の筆者にこのような高級モデル(定価900万円以上)を購入できるほどの資金力はなく、ただ指を咥えて見ているしかなかったため、手に入れたのは2022年。もちろん中古品だ。

パテック フィリップ Ref.5170J

最外周のタキメーターはパルスメーターに置き換えられているものの、文字盤や針のデザイン要素は基本的にRef.130のローマ数字&ロングバーインデックス文字盤から引き継がれている。欲を言うなら、パルスメーター上の数字を30年代風の書体にしてもらいたかった。

 本作を探そうと考えたきっかけは、それまで使っていた同社の薄型3針モデル「カラトラバ Ref.3796SJ」(日本市場限定のシースルーバック)と、オメガの手巻きクロノグラフモデル「スピードマスター ムーンウォッチ 321」を1本にまとめたような時計が欲しくなったから。つまり、ドレスウォッチと手巻きクロノグラフを融合させた時計だ。


ツーカウンタークロノグラフのRef.5170Jはドレスウォッチたりうるか?

 時計愛好家の世界でドレスウォッチの定義の話になると

・小径薄型の貴金属ケース
・2針あるいはスモールセコンド3針
・ホワイトあるいはシルバーの文字盤

というような条件が設定されがちだが、筆者の基準は少し違う。

 当然、シャツの袖口に収めるための物理的なサイズ制約は必要だ。しかし、本質はもっと設計者の精神性と結びついており、根源的には「着用者の腕にGフォース(加速度)を発生させない所作を強要する時計」こそ、真の意味でのドレスウォッチだと考えている。

 言い換えるなら、外部からの衝撃や急激なストップ&ゴーに適応できないほど繊細に詰められた時計だ。針数や文字盤カラーなどは些末な問題であり、この精神性が感じられない時計は、どんなにケースや文字盤がクラシカルにまとめあげられていても、個人的にはドレスウォッチとして認めていない。

パテック フィリップ Ref.5170J

Cal.ETA7750搭載スポーツウォッチの時針、分針、クロノグラフ秒針のクローズアップ。文字盤-時針間、分針-クロノグラフ秒針間のクリアランスが非常に広く確保されているのが分かる。

 そもそも筆者は、昨今の高級時計市場においてこれほどまでにフリースプラングテンプが普及した要因を、「等時性の高さ」よりも「耐衝撃性の高さ」が喜ばれた結果ではないかと考えている。電子制御の腕時計があふれる現代では、一般ユーザーの大多数が機械式時計の構造を熟知しておらず、腕を振り回したり手を叩いたりといった日常動作によるGフォースが、緩急針式時計のヒゲ絡みリスクを増大させてしまうからだ。

 またそのような条件下では、針のたわみによって針同士や針と文字盤の接触リスクも懸念されるため、近年の時計は針を薄く成形し、それぞれのクリアランスを広く取る方向に変化している。同時に1970年代以降、風防の主流がボックス型プラスティックから平面型サファイアクリスタルに移行し、増大した針高をベゼル外に逃がすことができなくなった結果、現代時計の多くが幅広な見返しを備えるに至ったのである。

パテック フィリップ Ref.5170J

5170Jの時針、分針、クロノグラフ秒針のクローズアップ。文字盤-時針間と分針-クロノグラフ秒針間は針2本分、時針-分針間は針1本分しかクリアランスが確保されていない。

 対してRef.5170Jは、スモールセコンドと30分積算計のエリアを深く彫り込み、それぞれの針を沈み込ませることで、文字盤から時針までのクリアランスを針2本分まで短縮。さらに針間はもちろん、クロノグラフ秒針からサファイア風防までのクリアランスも限界まで詰めることで、クロノグラフ時計でありながら一般的な3針時計よりも狭い見返しを実現している。

『クロノス日本版』の読者をはじめとした有識者であれば、このような時計を身に着けて腕を振り回そうなどと考えることはまずないだろう。筆者自身も本作を着用している日は自然と動きが静かになり、強い拍手や大振りな動作は控えてしまう。これこそが「着用者の腕にGフォースを発生させない所作を強要する時計」なのである。

 見返しが限界まで詰められた結果、風防を含めたケース厚も9mm(実測値)という薄さを実現している。アームホールの狭めなシャツの袖口にも難なく収まる本作は、スモーキングジャケットなどのパーティールックとも相性が良く、筆者にとってはまごうことなきドレスウォッチなのだ。

パテック フィリップ Ref.5170J

晴天の屋外で撮影した着用ショット。クロノグラフ搭載モデルとは思えない狭さの見返し幅に抑えられているのが分かる。


並外れた操作感触と、現代的な軸間距離をそなえたムーブメント

 もうひとつの選定条件である「スピードマスター ムーンウォッチ 321」要素は、クロノグラフの仕様面にある。本作が搭載するCal.CH29-535 PSは、キャリングアーム式の水平クラッチやコラムホイール、インダイレクトリセット機構といったレマニアCal.2310の大枠の仕様を引き継ぎながら、カム式の瞬時運針式30分積算計や多数の微調整機構など、独自の優位性をそなえた完全自社設計の手巻きクロノグラフムーブメントだ。

 受けはもちろん、各種レバーや板バネの根本まで面取りされた繊細な仕上げはそれだけでも見応え十分だが、実際にプッシャーを押し込んだ際の感触は、マニア陣がそろって感嘆の声を上げてしまうほどの滑らかさである。とりわけリセットプッシャーの軽やかさは比肩するムーブメントが見当たらない。ドレスパッケージの本作に関しては、誤作動のリスクなどまるで考えていないのだろう。

パテック フィリップ Ref.5170J

シースルーのスクリューバックをそなえたRef.5170Jの背面。Cal.CH29-535 PSは仕上げの繊細さに注目が集まりがちだが、コラムホイール上の偏心シャポーによりキャリングアームとコラムホイールの噛み合わせすらも調整可能な構造など、高級機ならではの凝った設計も見どころだ。

 また、そのサイジングにも新設計ムーブメントならではの優位性が光る。1942年に発表されたレマニアCal.2310は、手巻きクロノグラフの分野において世界で最も成功をおさめた傑作ムーブメントだ。しかし、直径27mmというサイズは現在主流の大型時計には適合させにくく、インダイアルが中央に集中した文字盤レイアウトを多発させる要因ともなっていた。

 対してCal.CH29-535 PSは直径を29.6mmまで拡大し、厚さを5.35mm(Cal.2310は6.74mm)に抑さえた大径薄型設計のため軸間距離も広い。このサイジングこそが、本作の盤面を広く活用したクラシックな文字盤レイアウトや、ドレスウォッチとしても活用可能な薄型ケースの実現に寄与しているのだ。

パテック フィリップ Ref.5170J

軸間距離が広いためケース径39.4mmながらインダイアルが中央に寄らず、余裕を持たせたレイアウトが特徴だ。


パテック フィリップがオタクに捧げる時計?

 このようにふたつの観点から選定したRef.5170Jだが、当初の目的通り「クロノグラフを搭載したドレスウォッチ」としてパーティーシーンで大活躍してくれている。飽き性な筆者が購入から2年経過した今も手元に置いているのだから、潜在的な好みにもハマっているのだろう。くわえて、本作の後継機であるRef.5172はケース径が1.6mm拡大され、文字盤もミリタリーテイストに変化してしまったため、もはや乗り換える対象も見当たらないのが実情だ。

パテック フィリップ Ref.5170J

 2000年代半ばから大多数のムーブメントをスピロマックス(シリコン製ヒゲゼンマイ)化してしまったパテック フィリップが、2024年現在もまだブレゲヒゲを採用し続けるCal.CH29-535 PSは、同社が時計オタクのために残してくれた意地とプライドのムーブメントだと解釈している。そのうえ極限まで古典的なデザインの外装に包まれた本作は、もはや奇跡の1本だろう。

 パテック フィリップというブランドはどうしても時計業界において神格化されがちな存在だが、所有する資格だの分不相応だのと堅苦しく考えずに、純粋に「オタクの欲求を満たしてくれる時計」として、これからもRef.5170Jを楽しんでいきたいと思う。


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