「予想外の長いブランクだったな」と思うのは、筆者だけだろうか。2025年シーズンから、LVMHグループ傘下のタグ・ホイヤーが22年ぶりに、ロレックスに代わってモータースポーツの最高峰であるF1(フォーミュラワン)グランプリのタイムキーピング、つまりF1レースの公式計時担当に帰ってくる。このブランクが意外だったのは、タグ・ホイヤーが、現在の「F1計時システム」の原点、レースの「電子計時システム」のパイオニアだから。タグ・ホイヤーとF1のレース計時は“切っても切れない”関係なのだ。これを機会に、ぜひその歴史と偉業を知ってほしい。
[2025年1月16日公開記事]
機械式ストップウォッチから電子計時システムへ
F1世界選手権のルーツは第2次世界大戦前に設けられていた世界メーカー選手権(1925-1930年)およびヨーロッパドライバー選手権(1931-1939年)。1947年にレギュレーションが固まったが、自動車レースが初開催されたのは1950年。ちなみに、最初に公式計時を担当したのはロンジンであった。
今は、電子計時システムが小さなカートレース場にまで普及していて、各車の順位や周回ごとのラップタイムまで、リアルタイムで分かるのが当たり前だ。ところが当時は機械式時計の時代。だからF1の計時に使われていたのも当然のことだが、機械式ストップウォッチであった。公式計時といっても予選後やレース後に公式記録としてペーパーが配られるだけ。
ところがレースで勝つ、ひとつでも良い順位でゴールするためにはレース戦略が不可欠。そして、そのために欠かせないのが自車やライバル車のラップタイムのデータだ。自チームのマシンは1周何分何秒で走っているのか? 前後を走るライバルのマシンは1周何分何秒で、どのくらいタイム差があるのか? 何周で追いつくのか? 何周で追い付かれるのか? ラップタイムが計測できなければ、レース戦略は作れない。そして当時、ラップタイムの計測を行っていたのは、チームスタッフやドライバーの恋人や奥さんたち。木の板に何個もストップウォッチを取り付けて何台ものマシンのタイムを同時に、かつ正確に計測するためには、かなりの熟練が必要だった。
ドライバーが自分の感覚以外でこうした情報を知ることができるのは、チームのマシンがホームストレートに戻ってきたときに読む、ピットクルーの出すサインボードの数字だけ。すべてが機械式で人頼みだった時代。だが1970年代初頭、タグ・ホイヤーが公式計時に革命を起こした。電子計時システムの開発と導入だ。
フェラーリに納入した電子計時システム「センチグラフ」
F1の電子計時システムの導入・進化・発展は、1970年代初頭、時計界とレース界のVIPだった、ホイヤー社のジャック・ホイヤー氏と、ワークスレーシングチームのスクーデリア・フェラーリ(フェラーリ社)の総帥エンツォ・フェラーリ氏のふたりの握手から始まった。
1966年、タグ・ホイヤーの前身であるホイヤー社は世界初のデジタル計時装置「マイクロタイマー」を開発。1971年には、当時の社長ジャック・ホイヤー氏がスクーデリア・フェラーリチームの総帥エンツォ・フェラーリ氏と交渉し、ホイヤーが開発した最新の光電管を使った電子タイム計測システム「センチグラフ」をル・マン24時間レースのピット、さらにフェラーリF1チームのピットや、プライベートサーキット・フィオラノに納入する。これがF1レースに電子計時システムが導入される最初のきっかけだった。
そしてこのセンチグラフこそ、現在のレース計時システム、自動車両識別計測システム(Automatic Car Identification Timing System=略称ACIT)のルーツだ。つまり、タグ・ホイヤーはレース計時の世界に革命を起こしたのである。
ジャック・ホイヤー氏はもともと、スイス連邦工科大学チューリヒ校を卒業した電子工学系のエンジニアであった。ただ、大学で半導体について学ぶことはなかったという。とはいえ、クロノグラフやストップウォッチのトップメーカーの経営者として1960年代からレースの現場に足を運び、トップチームやトップドライバーとの交流も深かったから、計時システムの必要性を誰よりも理解していた。そして、レースの公式計時に以前から疑問と不満を持っていたエンツォ・フェラーリ氏にシステムを売り込み、提供したのだ。
ジャック・ホイヤー氏の自伝によれば、エンツォ・フェラーリ氏は当時ル・マン24時間レースのために、独自の計時システムを求めていた。そして1970年12月、ジャック氏はエンジニアとともにイタリア・マラネロのフェラーリ工場を訪れて、ル・マン24時間レースのピットにおけるフェラーリのピットクルーのための計時システム「ル・マン・センチグラフ(=センチグラフ)」の開発と導入を提案した。だがこのとき、エンツォ氏は装置を無償で提供するように求めたという。そしてジャック氏は、息子のピエロ・フェラーリ氏と計時装置を無償で提供する契約を交わした。
さらにエンツォ氏はジャック氏にレースの資金援助を求め、ホイヤーが契約ドライバーのふたりにそれぞれ年間2万5000スイスフランを支払うこと、その代わりにレーシングスーツの右胸上にホイヤーのロゴワッペンを付けることで合意する。これは、時計ブランドがF1チームをスポンサードする最初のケースになった。そして1971年春、F1シーズンが開幕すると、各チームがフェラーリのピットに設置された何台ものマシンのタイムを同時に、かつ正確に計測できるセンチグラフの画期的な機能に驚愕し、競って導入することになったという。
1992年から2003年までF1の公式タイムキーパーに
さらにBMWがドイツ・ミュンヘンのテストコースに64個の光電管を使い、コースを細分化してマシンのスピードをより精密に計測できるセンチグラフをオーダーしたことを知ると、エンツォ氏はホームサーキットとして建設中だったフィオラノに同様の、さらに高度な分析ができるシステムを無償で設置してほしいと要望する。そこでホイヤーは、以前の契約と同様に、マシンやドライバーのレーシングスーツにホイヤーのロゴを2年間付けることを交換条件に設置を承諾。1972年秋にフィオラノの開場とともにこのシステムが稼働すると、マシン開発に大いに貢献する。
そしてフェラーリチームは1974年、それまでの不振が嘘のような速さを取り戻し、F1を席巻する。1975年にはニキ・ラウダがドライバーズ選手権、チームがマニュファクチャラー選手権のダブルタイトルを獲得している。
こうした歴史を振り返ると、タグ・ホイヤーとF1レースがなぜ“切っても切れない”関係なのか、分かっていただけると思う。
その後、1986年から2015年に至るマクラーレンとの伝説的なパートナーシップを築き上げ、さらにジャック・ホイヤー氏のリーダーシップによって、タグ・ホイヤーは1992年から2003年までFormula 1®の公式タイムキーパーを担う。
こうして、ホイヤー(現タグ・ホイヤー)をルーツとするレースの電子計時システムは、進化・発展を遂げて現在に至っている。そんな背景を持つタグ・ホイヤーが、Formula 1®創設75周年を迎える2025年、22年ぶりにF1公式タイムキーパーに復帰する。
その胸熱話はまた別の機会に。