現代におけるパイロットウォッチの在り方を再考する。そんな『クロノス日本版』Vol.98「パイロットウォッチ礼賛」特集を、webChronosに転載。第4回はオメガの「スピードマスター」。1957年、ドライビングウォッチとして開発された同コレクションは、いかにしてパイロットウォッチとなり、ついには宇宙へと飛び立ったのか? ペトロス・プロトパパスが記す。
Translation by Chronos-Japan
[クロノス日本版 2022年1月号掲載記事]
オメガ「スピードマスター」のユニークな歴史とは?
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パイロットが着ける時計と考えれば、オメガのスピードマスターを外すわけにはいかないだろう。そもそもドライビングウォッチでしかなかったこのクロノグラフは、いかにして月面着陸への道をたどったのか? オメガのブランド・ヘリテージ責任者であるペトロス・プロトパパスが極めてユニークな歴史を改めてひもとく。
オメガのブランド・ヘリテージ部門責任者、ペトロス・プロトパパスが明かすスピードマスターの歴史
![ペトロス・プロトパパス](https://www.webchronos.net/wp-content/uploads/2025/01/no98_moonwatch_1.webp)
オメガ ブランド・ヘリテージ部門責任者。オメガ博物館の館長を経て現職。オメガのみならずスイス時計業界の歴史全体を語ることができる碩学。オメガに関する膨大な知識は、掛け値なしに世界一。大の親日家で、とりわけ円谷プロの特撮を好む。「スピードマスター “ウルトラマン”」は彼の見識があってこそ。
2022年、ひとつの伝説的なクロノグラフが65周年を迎える。オメガ「スピードマスター」はその歴史において、1969年7月に行われた人類初の月面着陸をはじめ、65年3月以降に行われたNASAの全有人ミッションなど、人間の勇気と耐久性の限界を超えた、記念碑的な出来事に参加してきた。この地味なクロノグラフが、伝説的な地位を獲得したことは、決して不思議なことではない。
プロフェッショナルによるプロフェッショナルのためのクロノグラフ
1950年代は、初のジェット旅客機の登場によって大陸間の移動がより速く、より簡単になった。また、科学者たちは日々新たな奇跡を生み出し、人類の冒険心は次の頂点に達し、探検家たちは地球上の最も高い山、最も深い海、そして最も遠い領域を目指すようになったのである。目標を達成し、安全を確保するため、新しい冒険者たちはプロフェッショナルなツールを求めるようになった。彼らの冒険には正確な計時が欠かせなかったが、日常生活においても以前にも増して“プロフェッショナル”であることが求められたのだ。
こうした要求に応え、オメガは57年に新しいクロノグラフのスピードマスターを発表した。シーマスターの子孫としてデザインされた斬新なスピードマスターは、もともとハイスピードドライビングを念頭に置いて開発されたものであり、クロノグラフのデザインに新しいアプローチを導入した時計だった。つまり通常は文字盤に表示されているタキメーターの目盛りを、アウターベゼルに配置することで、当時としては珍しいクリーンで先進的なデザインを実現した時計だったのだ。
宇宙への冒険が始まる
オメガが新しいクロノグラフを開発している間、旧ソビエト連邦とアメリカは、人類最大の冒険となる“宇宙征服”のための道筋をつけた。後に東西間の「宇宙開発競争」と呼ばれるようになったものである。アメリカのNASAは「マーキュリー」プロジェクトで初期の有人宇宙探査を開始した。
宇宙飛行士たちは、他の職業人たちと同様、バックアップのための計時装置を必要とし、満場一致で腕時計の支給を求めた。しかしNASAは、まだ公式の計時機器を提供する必要はないと考えていた。そのため、宇宙飛行士が自分たちで腕時計を用意するほかなかったのである。
62年、ウォルター・“ウォーリー”・シラーとリロイ・ゴードン・“ゴード”・クーパーを含むマーキュリー宇宙飛行士の一部は、個人的にクロノグラフを購入した。ふたりは元軍人パイロットであり、NASAの初期の宇宙飛行士たちも同様だった。彼らの多くは、航空会社TWAのパイロットが装着するスピードマスターのことを知っていた。時間を瞬時に読み取れ、揺るぎない性能を持つ時計は、パイロットウォッチに求められる条件であり、スピードマスターはこれらを見事に満たしていたのだ。ウォルター・“ウォーリー”・シラーが所有するCK2998は、NASAのミッションで飛行した最初のスピードマスターとなり、62年10月3日のマーキュリー・アトラス8(シグマ7)ミッションでは、宇宙で飛行した最初のオメガとなった。
真のパイロットウォッチとして、また宇宙飛行士の命を救うバックアップ機器としてのスピードマスターの資質は、マーキュリー計画の最後に行われた“ゴード”・クーパーのミッションで早くも試されることとなった。彼はマーキュリー・カプセルの中で複数の機器が故障し、自分の命と地球への安全な帰還が脅かされた後、スピードマスターを使って命を救うタイミングを計算しなければならなかったのだ。
NASAの資格
マーキュリー計画が成功した後、新しい宇宙飛行士のグループが、ジェミニ計画に参加するようになった。新しいプログラムの開始にあたり、宇宙飛行士たちは再びミッション遂行のための公式時計の提供を求め、その要求が受け入れられた。
NASAの文書には次のようにある。「ジェミニやアポロのフライトクルーが、時間的に重要な作戦や実験を遂行する際に、宇宙船の計時装置の補助やバックアップになる、耐久性の高い正確なクロノグラフを求めています。我々の全体的な要求を最もよく満たすクロノグラフを選択するため、現実的な運用条件の下、より品質の高い既製品クロノグラフを比較評価することが必要です」。このコメントは時計の、とりわけスピードマスターの歴史を変える一歩が始まったことを意味する。
64年10月、NASAは腕時計型クロノグラフに対するRFQ(見積もり要求書)を10の時計メーカーに送付した。対してオメガは、この依頼書の写しをニューヨークの米国法人にいたノーマン・M・モリスに送った。驚くべきことに、10社のうち回答があったのは4社のみ。公式時計の調達とテストの準備・実施を担当したNASAのエンジニア、ジェームズ・H・ラガンは、4社のうち3社を選んだのである。回答したブランドのひとつが、要求された腕時計型クロノグラフではなく、懐中時計を提案したため、テスト前に失格となってしまったのだ。ラガンは、残りの3ブランドから、それぞれ3つのクロノグラフを購入した。
64年当時のスピードマスターは、リュウズプロテクター付きの非対称ケースを採用したST 105. 012だった。しかし、ノーマン・M・モリスは、ストレートラグを採用した前バージョンのST 105.003をNASAに送り、伝説的な耐久テストにはこのモデルが提出された。
NASAによる耐久テスト
公式時計の調達とテストを行ったジェームズ・ラガンの基準は、書面上でさえも非常に厳しいものだったことが分かる。24時間ごとに計測されるクロノグラフの精度は、どのような状況下でも±5秒以内であること。また、気圧の変化に影響されず、どんな暗い場所でも読み取り可能で、宇宙飛行士の視界を脅かす眩しさがあってはならない、とあった。さらに、耐衝撃性、防水性、耐磁性を備えていなければならなかった。
実際に行われたテストで、NASAは購入した時計をほぼ壊滅状態にまで追い込んだ。3社のクロノグラフは、まず2日間にわたって71℃から93℃の温度にさらされ、その後、マイナス18℃まで凍結された。さらに93℃に加熱された真空チャンバーに入れられ、宇宙での性能を確実にするため、70℃に加熱された後、すぐにマイナス18℃に凍結されるという作業が15回も連続して行われたのである。その後、6つの異なる軸方向に40G(重力加速度)の衝撃を与え、さらに10〜6気圧の真空中で90分、71℃、93℃で30分の減圧テストを実施。次に、クロノグラフを1Gから7.25Gまでわずか数秒で直線的に加速させた。そして、高低差のある圧力、93%の湿度、腐食性の高い100%の酸素環境、および40〜1万㎐の周波数範囲で130dBのノイズレベルの組み合わせに30分間さらされた。最後に受けたのは、機械式時計にとって最大の敵である振動テストだった。振動とは、5〜2000cpsの周波数が15分で5cpsに戻る、30分の3サイクル(横、水平、垂直)のことで、1インパルスあたりの平均加速度は最低でも8.8Gもあった。
ラガン自身が考案・設定した基準によると、いずれかのテストでクロノグラフが停止し、再起動できなかった場合、テストに失敗したとみなされる。最終的に生き残ったのは、スピードマスターだけだった。
テストをパスしたスピードマスターが優れたツールウォッチであるという事実に加え、これが典型的なパイロットウォッチであったことを最もよく示す逸話がある。65年2月4日付の手紙で、スレイトンは調達手順を詳細に説明し、加えて宇宙飛行士自身による評価が行われたことを記載。その中で彼はこう記した。「(スピードマスターは)マーキュリー計画とジェミニ計画で使用されたクロノグラフの中で、すべての宇宙飛行士から満場一致で好まれており(中略)また、運用評価に参加したクルーからも非常に好まれている」。
過酷なテストの結果とパイロットたちの高評価を受けて、NASAは65年3月1日、オメガのスピードマスターにすべての有人宇宙ミッションのための飛行適格性があると正式に宣言した。それを受けて、ジェームズ・ラガンの部署は、スピードマスター30個の公式注文を進めた。65年3月23日、最初の公式時計となったST 105. 003は、ジェミニⅢミッションに参加したヴァージル・“ガス”・グリソムとジョン・ヤングの腕に装着され、初めて宇宙に旅立ったのである。65年6月3日、NASA支給のスピードマスターを身に着けたエドワード・ホワイトは、ジェミニ4号ミッションでアメリカと西欧諸国初の宇宙遊泳を、英雄的に行った。
そしてムーンウォッチへ
テストの成功と、ジェームズ・H・ラガンの指示に基づき、ヒューストンにあるNASAのプログラム・オフィスは、ジェミニ計画とアポロ計画で使用されるスピードマスターを合計97本購入した。そのうち約30個はST 105. 003で、残りの67個はST 105. 012とST 145. 012だった。なお78年にスペースシャトル用装備品の再評価が始まるまで、NASAがCal.861搭載のスピードマスターを1本も購入しなかったことは非常に重要なことと言える。言い換えれば、ジェミニ、アポロ、スカイラブ、アポロ・ソユーズ計画を含むすべてのミッションにおいて、NASAはCal.321搭載のスピードマスターのみを保有し、使用したわけだ。なお、この伝説的なキャリバーには相応の評価が与えられており、歴史的事実を言うと、Cal.321を搭載したスピードマスターだけが、アポロの宇宙飛行士の腕に巻かれて月面を歩いた時計となる。
スピードマスターの月面での冒険は、アポロ11号が月面に到達したときに始まった。69年7月21日2時56分(日本時間)、アポロ11号の宇宙飛行士でミッションコマンダーのニール・アームストロングがイーグル号のハシゴを降り、人類として初めて月面に降り立った。そのわずか15分後には、バズ・オルドリン宇宙飛行士が続いて月面に降り立つ。月面でのEVA(船外活動)の際、スピードマスターは月面で着用された最初の時計となった。
70年、月に向かう3番目のミッションに搭載されたスピードマスターは、これまでで最も重要な“テスト”に合格しなければならなかった。いわゆる「アポロ13号」だ。月に向かう途中で酸素タンクが爆発し、電力がほとんど供給されず、酸素濃度も危険なほど低下したため、宇宙飛行士たちは、船内で完璧に機能していた数少ないアイテムのひとつ、スピードマスターを使用した。この時計は、重度の損傷を受けた宇宙船の正しい再突入軌道を確保するために必要な、重要なエンジン燃焼のタイミングを計ることに成功したのである。少しでもタイミングを誤ると、宇宙船は地球の大気圏に跳ね返されたり、急な再突入により大気圏で燃え尽きてしまったりする恐れがあった。帰還後、アポロ13号の宇宙飛行士たちは、スピードマスターが果たした人命救助の役割を称えて、有名な「銀のスヌーピー賞」をオメガに贈ったのである。
スピードマスターはアポロ17号の宇宙飛行士の腕に装着され、最後に月へと旅立つことになった。ミッションコマンダーのユージン・〝ジーン〞・サーナンは、実際にふたつのNASA支給のスピードマスターを携行していた。宇宙服の上から、ミッション専用に用意されたスピードマスターを着用して月面EVAに臨んでいたが、アポロ月着陸船内の写真では、ST 105. 003を着用している。過酷な耐久テストに合格し、NASAの飛行資格を可能にしたモデルが、月面で着用される最後の時計のひとつとして月に戻り、他のクロノグラフにはない素晴らしい「キャリア」を築いたのである。
そして、サーナンが最後にアポロ月着陸船のハシゴを上り、人類最後の足跡を月面に残した直後、Cal.321を搭載したオメガ スピードマスターはその伝説の輪を閉じ、月面で着用された最初で最後の時計となったのだ。