「時計の仕事でごはんを食べたい」。願いを込めて手にした、ロレックスのアンティーク時計

FEATUREその他
2025.03.15

時計編集・ライターの髙井智世が、自身のコレクションの中から、特に思い入れのある1本を紹介する。取り上げるのは、時計業界への転身を決意し、20代半ばで脱サラして手に入れたロレックスのアンティークウォッチだ。当時、特に影響を受けた方々との出会いを振り返りながら、その腕時計を紹介する。

今回ご紹介する、筆者が時計業界への転身を決意した際に手に入れた、ロレックスのアンティークウォッチ。
髙井智世:写真・文
Photographs & Text by Tomoyo Takai
[2025年3月15日公開記事]


時計業界へ進むための決意の1本

『クロノス日本版』編集部員からフリーランスの編集・ライターに転身して4年ほどが経つ。末席も末席ながら現在もこうして時計業界に携わり続けられているのは、ひとえに厳しくも温かく育てていただいた先輩方はじめ、周りの方々のおかげでしかない。ただ時計が好きという一心で、世間知らずな私は編集・ライティングの基本さえ知らぬまま2017年秋にクロノス編集部へ飛び込んだ。さらにさかのぼれば、2013年、時計業界に何のアテもコネもないのに、「時計の世界でやっていく」と一念発起し、それまでのキャリアをすべて捨ててしまった。この時も、多くの人に助けられ、なんとか食いっぱぐれることなく生き永らえた。

 今回、「思い入れのある1本」というテーマのもとで紹介させていただくのは、ロレックスのアンティークウォッチだ。これは時計業界への転身を決意した際に手に入れたものであり、現在も頻繁に着用している1本である。自分の向こう見ずな性格を恥じつつ、お世話になった方々に改めて感謝しながら紹介させていただきたい。

実用時計の雄として認識していたロレックス。時計とは無縁だった当時、華奢なこの1本を見付けたときには驚きを覚えた。マーキス型のケースや繊細なブレスレットデザインは、1950年代〜1970年代にかけてのロレックスのレディースウォッチに多く見られる。


20代半ば、脱サラする直前に購入

 振り返れば、私の時計業界への転身には反対する人もいた。かつて私はある大手企業のグループ本社に勤め、いわゆる安定した道を歩く普通の会社員だった。その頃に所有していた腕時計は、デイリーウォッチとしての「シチズン エル」、フォーマル用の「カルティエ サントスドゥモワゼル」の2本だけ。「なぜ突然、時計なの?」。大幅な路線変更に、家族や友人、いったい何人から驚いた顔でこう問われただろう。私のプレゼン能力の乏しさもあり、なかば反対の声を押し切る形にはなった。ただ、確信はあった。「こんなに面白い世界は他にない。飽き性な私だが、おそらく時計はライフワークにできる」。

 当時の私は20代半ばだった。周りの友人は次々と結婚し、家庭を築いていく。その一方で、1から新たな道を進もうとしている私。正直に言うと、不安は、めちゃくちゃにあった。しかし、それでも前に進みたかった。

1枚前とこの写真は、時計の仕事を始めた直後にカメラマンの友人に依頼して撮ってもらったもの。これが私の初めての時計撮影の経験だ。なお、お気付きの方もいるだろうが、背景に用いているのは「ピンク岩塩」である。当時の自分にいろいろとツッコミたくなるが、時計は今も元気に動いてくれている。

 私が時計に関心を持つきっかけとなったのは、ヴィンテージウォッチだった。初めて魅了された場所は、仙台への旅の途中で立ち寄った、ヴィンテージ時計店「ブルーマオマオ」だ。店内の一角に、深海を想起させるような仄暗い演出でオメガ「シーマスター」がムーブメントとともに展示されていた。私が知る腕時計とはまったく異なる世界観があることを知った瞬間であった。2010年のことである。

 その余熱が冷めぬうちに、やがて今回紹介するロレックスの腕時計と出合うことになる。当時暮らしていた神戸の居留地にあるセレクトショップで、ヴィンテージウォッチのポップアップイベントが開催されることを知り、出掛けた。30本くらいが陳列される中に、小さなヴィンテージレディースウォッチもあった。かつて「南京虫」と呼ばれていたという、1円玉くらいの大きさの腕時計を、ここで初めて見た。

時計と1円玉の大きさ比較。

 接客についてくれた男性は時計の扱いに慣れた様子で、裏蓋を開けて内部まで見せてくださった。そして衝撃を受けた。これほど小さな時計でも、それぞれに適したムーブメントが内蔵されている。中でも感心したのが、1960年代製のこのロレックスだった。マーキス型のケースに合わせて、パーツの数々が見目麗しくすっきりと納められている。金属の光沢、ルビーの輝き、丁寧に配された刻印。そして健気にブンブン回るチラネジ付きのテンプと、忙しく動く歯車たち。半世紀も前に作られたものが、こんなに美しい状態を保ちながら、人知れず時を刻み続けてきたのか。完全に心を射抜かれてしまった。

搭載される手巻きムーブメント。1950年代以降のロレックスの機械式ムーブメントに搭載された、KIF社製の耐衝撃機構などが用いられている。

 ケースは14金。ブレスレットは純正ではなく、中国製の物が付けられている。ゆえに約25万円と、多少無理をすれば手が届かなくもない金額だ。しかし私にとっては当然大きな買い物だった。なにせ必需品でもない。穴があくほど腕時計を眺めてから、後ろ髪を引かれる思いでそのまま店を去った。

 この時ほど「物」が頭から離れなかったことは後にも先にもない。それからしばらく、本やインターネットで時計について調べるようになり、他のヴィンテージ時計店にも通った。神戸ではスプリングウォッチファクトリーや芦屋のミグパリへ。東京では、シェルマンやケアーズで豊富な品ぞろえに感激し、ダズリングやマサズ パスタイム、キュリオスキュリオなどでも奥深さを学んだ。東京交通会館や松屋銀座で行われるアンティークウォッチフェアにも出向き、とにかく時計があると知れば骨董品屋でも蚤の市でもどこでも行った。そして知れば知るほどに引きずり込まれていき、もっとたくさんの時計を知りたいと思うようになった。やがて、漠然とではあるが、時計の仕事に従事したいと考えるようになった。

 まもなく、転機が訪れた。そんな私の時計漬けの日々を知人づたいに聞いたある男性が、「ヴィンテージウォッチのネットショップ運営をしている。手伝ってみないか?」と声を掛けてくれたのだ。願ってもない機会だと思った。それは、雇用関係を結ぶ話ではなかった。しかし、私はその誘いに全力で応えたかった。いっそ、今の仕事を辞めてしまってもいい。多少の貯金はあるし、貯金がなくなったってなんとかしよう。そう思った。

 不安と楽観が入り交じる高揚感を抱え、例のセレクトショップを訪れると、あのロレックスはまだそこにあった。私は諸々の覚悟を決め、ついにその時計を手に入れた。2013年のことである。

写真では分かりづらいが、裏蓋の6時位置には2カ所、小さな爪が設けられている。そのおかげで、ケースを傷つけることなく裏蓋の開閉がしやすい。こうしたメンテナンス性を考慮した設計が施されている時計は、良い時計だと思う。


修理職人、水谷さんのもとで時計修理を学ぶ

 腕時計を手に入れた後から現在に至るまでをもう少し書かせてほしい。その後、男性の元で腕時計の扱いやネットショップ運営について学んだ私は、やがて時計の機械をしっかりと理解したいと考えるようになった。機械工学の知識が皆無のため、ムーブメントの理解が追いつかないことが多々あり、もどかしかったためだ。そして頼らせてもらったのが、時計修理の依頼先だった、水谷時計修理工房の水谷康夫さんだ。

【不定期連載】時計修理の現場から/神戸のアンティーク修理工房より

https://www.webchronos.net/features/22250/

 水谷さんは、2020年にwebChronosでも紹介させていただいた修理職人である。話は脱線するが、『クロノス日本版』2018年7月号(Vol.77)で、「国産初の懐中メーカー『大阪時計』大量発掘」という記事があった。貴重なその時計の修理をかつて手掛けたのも、実は水谷さんであった(この記事の編集に私は関与していないが、水谷さんが記事に喜んでいる姿を見た時は、感慨深いものがあった)。

大阪時計の修理について、水谷さんから「戦争のダメージを受けたものばかりで、難しい修理だった。石原さんの依頼を受けた石井さんを通じての仕事だった」とうかがった。この石原さんとは、石原時計店の4代目の石原実さんのことである(石原時計店は、大阪時計の設立と運営に深く関与し、日本の時計産業の発展に寄与した江戸時代創業の時計店)。そして石井さんとは水谷さんの旧友のことであり、NAWCC第131関西支部・日本古時計クラブ(※2019年からは同好会として活動を継続)を立ち上げた石井司朗さんのことである。なお石井さんによれば、関西支部の設立は、時計仲間として親しかった堀田良助さん(株式会社ホッタの3代目)からの薦めだったという。歴史的な話もいろいろとお聞きした。

 話を戻すと、そんな大ベテランの水谷さんに、私は「何でもいいから手伝いをさせてほしい」と頼み込んだが、最初はあっさり断られた。私は素人であり、当然のことだ。しかし恥ずかしながら私は本当に厚かましく、諦めが悪かった。そこから私は時計修理の営業活動を始め、集めた時計はすべて水谷さんのところに持ち込むようにした。そうして工房に通う頻度を増やし、時折静かに修理の様子を見学させてもらった。さらに、ジャンク品を入手して独学で分解修理を始め、その答え合わせを水谷さんにお願いすることもあった。ロレックスの南京虫のオーバーホールにも挑戦した。また工房にいる間、来客や電話対応などの雑用を見つけて勝手に手伝ったりもした。後述するが、この頃、時計学校にも通い始めた。

 水谷さんには、当初は露骨に煙たがられた。しかし、そんなことを2年ほど続けたある日、工房へ行くと、水谷さんが私専用の机と椅子を用意してくれていた。そして「好きなもんをバラしていいよ」と、工房で眠っていた時計を、分解修理の練習用にいくつも渡してくれた。大きな機械であれば、修理の手伝いもさせてもらえるようになった。工房には、普通なら博物館でしか見られないような珍しい時計もいくつかあり、それらにも触らせてもらえた。たとえば、大理石を用いた豪奢なウェストミンスターや、猫のヒゲや羊の腸を部品に使っていたような古い時代のもの、明治時代に作られた八点鐘(はってんしょう)の時計などだ。また棺桶のように大きな柱時計を搬入する面白い体験も、何度かした。

 水谷さんのところへは、クロノス編集部への参加のため上京する2017年秋まで通い続けた。上京の報告を水谷さんは喜んでくれる一方で、「あんたがこの工房を継いでくれたらいいと思ってたこともあったんやけどな」とも話してくれた。水谷さんへの感謝の思いは、言葉では表しきれない。自分の人生に後悔はないが、もしも過去に戻れるのなら、また思う存分に水谷さんの手伝いがしたい。

私がジャズ好きだということを知り、水谷さんは仕事帰りによく老舗のジャズクラブ「SONE」へ連れていってくれた。写真は、上京を報告した日の帰りのSONEにて。この日水谷さんは、SONEで長年キープし続けていた「ポートピア’81 記念ボトル」のウイスキーを開けながら、「いつか大切な人と神戸に戻ることがあれば、一緒に飲みなさい」「困ったことがあれば、いつでも戻っておいで」と送り出してくれた。


近江時計学校で学び、時計修理技能士2級を取得

 先述の通り、私は時計学校でもお世話になった。滋賀県大津市にある近江時計眼鏡宝飾専門学校である。ここは「時の記念日」制定50周年を記念し、1969年に近江神宮の境内に設立された、日本国内で最も歴史のある時計学校だ。

陽光桜が彩る近江時計学校の玄関前。近江神宮は、日本で初めて漏刻(水時計)を用いて時を知らせたことから、「時の祖神」と称される天智天皇を祭神とする。

 近江時計学校では、廃止直前だった通信制の最後の生徒として、約2年間学ばせていただいた。月に数回の登校日があり、朝が苦手な私もこの日ばかりは早起きをして、神宮に参拝してから登校するのが習慣となっていた。私の席は、当時1年生だった6名の生徒の最後列に設けてもらった。この6名は出身地も年齢もバラバラだが非常に和気あいあいと仲良く、彼らが卒業するまで私も親しくしてもらい、多くの刺激をもらった。授業では座学から実技まで重要なポイントをしっかりと教えていただいた。多忙のなか丁寧に指導してくださった先生方には、感謝の念に堪えない。私は国家資格である時計修理技能士2級の取得を目標に通い、2016年に無事合格することができた。

お世話になった近江時計学校の先生方。学校を修了してからしばらく経った2021年、私は企画・編集を担当した書籍『時間の日本史』を小学館から出版させていただいた。その本をお届けにうかがった際に撮影した1枚。皆さんが喜んでくださる姿が嬉しかった。(右から)私の先輩で、その後先生となられた熊渕先生。2014年に28歳という若さでCMW(公認高級時計師)の資格を取得された染矢先生。私の担任を務めてくださった朗らかな伊藤先生。歴代の学生たちから母親のように慕われていた事務の小原さん(この写真の掲載許可をいただくためにご連絡した際、小原さんが昨年ご逝去されたことを知りました。心よりご冥福をお祈り申し上げます)。


上京し、時計業界へ

 余談が続くがもうひとつ。時計についてより体系的に学びたいと考えた私にとって、日本時計輸入協会が主催する資格検定制度「CWC(ウオッチコーディネーター資格検定)」もまた有用だった。私は上級まで受検して知識を深めることができ、会員向けイベントでは業界最前線の現場をのぞかせてもらうことができた。

 私にさらなる転機を与えてくれた腕時計がある。2014年に発表された、ヴァン クリーフ&アーペルの「ミッドナイト・プラネタリウム ポエティック・コンプリケーション」だ。この作品に大いに憧れた私は、ムーブメントの設計者クリスティアン・ヴァン・デル・クラーウさんをはじめ、独立時計師という存在や、天文時計をはじめとする複雑時計にも興味を持った。彼らの作品を見たいがためにワールドウォッチフェアなどへ通い、ひとりでバーゼルワールドを訪問したこともある。地元では、神戸の名店、カミネにもお邪魔するようになった。トークショーで講演した本誌・広田編集長に初めて会い、『クロノス日本版』への憧れが芽生えたのもこの頃だ。

 

 その後、上京して編集の仕事から本格的に時計業界へ進み、現在に至る。今回のテーマに立ち返ると、ロレックスのヴィンテージウォッチとの出合いが、ここまで導いてくれたように思う。今も時計への興味は尽きることがない。近頃は天文学や物理学、あるいはプラネタリウム関係者とのつながりも広がり、時計と時間の奥深さを改めて実感している。時計や時間は世界共通のものであり、海外の方々とも同じ目線で語り合えることがまた楽しい。今もまだ学ぶことばかりだが、裾野の広い時計の世界は尽きることなく広がり、いつまでも夢を見させてくれるのである。



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