1969年、グランドセイコーは当時最も高精度なモデルを追加した。その名は「V.F.A.」。「Very Fine Adjusted」と名付けられたこのモデルは、月差±1分以内という超高精度を謳ったものだった。それから半世紀ーー。グランドセイコーの新作である「スプリングドライブ U.F.A.」は日差でも月差でもなく、年差±20秒という異次元の高精度で、ゼンマイ駆動の腕時計の在り方を刷新しようとしている。
Photographs by Eiichi Okuyama,
Mika Hashimoto (Portrait photography on P.3 & P.7)
広田雅将(本誌):取材・文
Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
Edited by Yukiya Suzuki (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2025年7月号掲載記事]
新型キャリバー9RB2が実現した 最高峰の精度・視認性・審美性
超高精度(Ultra Fine Accuracy)をモデル名に掲げた「グランドセイコー エボリューション9 コレクションスプリングドライブ U.F.A.」。その名は、明らかにかつてフラッグシップとして君臨した超高精度機「V.F.A.」に倣ったものだ。同社が改めてV.F.A.の名を使わなかったのには理由がある。かつてのV.F.A.は入念な調整で傑出した精度を叩き出した。一方の新しいスプリングドライブ U.F.A.は、何と年差±20秒という異次元の精度を洗練されたメカニズムで実現したもの。名前の違いが示すものとはグランドセイコーの成熟の表れだ。

年差±20秒という空前の超高精度機であるキャリバー9RB2を搭載した新作。文字盤のモチーフは樹氷林。軽くて質感に富むブライトチタンの採用や、微調整機構付きのバックルにより装着感がより向上している。スプリングドライブ自動巻き(キャリバー9RB2)。34石。パワーリザーブ約72時間。ブライトチタンケース(直径37mm、厚さ11.4mm)。10気圧防水。151万8000円(税込み)。グランドセイコーブティックおよびグランドセイコーサロンでの取り扱い。
機械式ムーブメントの強いトルクと、クォーツ式ムーブメントの高精度を併せ持つスプリングドライブは、グランドセイコーにはうってつけのムーブメントだ。グランドセイコーは、2020年のキャリバー9RA系で月差±10秒という精度を実現し、今年の9RB2では年差の壁を超えてしまった。これは、主ゼンマイを動力源とする広義の機械式時計としては、掛け値なしに世界最高の精度である。
もっとも、9RB2を搭載したこの新作を〝使える腕時計〞に仕立てたのはグランドセイコーらしい。太い針とインデックスのおかげで視認性は良好。ブライトチタンとプラチナ製のケースは直径37mmと小ぶりで、普段使いにはもってこいだ。しかもブレスレットに備わった新しい微調整機構付きのバックルのおかげで、装着感はいっそう改善された。
史上空前の高精度を、普段使いのできるパッケージにまとめ上げたエボリューション9 コレクション スプリングドライブ U.F.A.。極めてユニークなその構成が示すのは、唯一無二というグランドセイコーらしさ、なのである。

こちらは限定版のプラチナ製モデル。樹氷林をモチーフとした文字盤は、より白いケースに合わせてわずかにブルーが施された。文字盤の開口部は大きいが、ラグを含むケース全長が44.3mmしかないため取り回しは非常に良い。なお直径37mmは、9Rスプリングドライブムーブメント搭載モデルとしては最小サイズだ。スプリングドライブ自動巻きキャリバー9RB2)。34石。パワーリザーブ約72時間。Ptケース(直径37mm、厚さ11.4mm)。10気圧防水。世界限定80本(うち国内40本)。550万円(税込み)。グランドセイコーブティックでの取り扱い。
年差±20秒をかなえたキャリバー9RB2の秘密
最大のトピックは、年差±20秒という異次元の高精度を誇るキャリバー9RB2だ。2004年のキャリバー9R65に始まったグランドセイコーの9Rスプリングドライブムーブメント搭載機は、ついにゼンマイを動力源とする腕時計としては異次元の精度に到達した。可能にしたのは、9Fクォーツに始まる高精度化への飽くなき取り組みである。開発チームは、いかにして異次元の高精度を可能にしたのだろうか?
(右)年差±20秒という異次元の高精度を実現した、2025年発表のキャリバー9RB2。月差±10秒を実現したキャリバー9RA系の設計思想を受け継ぎつつも、経年変化に伴う精度調整が可能な緩急スイッチや、新製法で加工された水晶振動子などを採用する。スプリングドライブ自動巻き(キャリバー9RB2)。パワーリザーブ約72時間。34石。直径30mm、厚さ5.02mm。
長らくグランドセイコーの第三のエンジンであり続けるスプリングドライブ。機械式ムーブメントの強いトルクと、クォーツ式ムーブメントの正確さを併せ持つこの〝エンジン〞は、高い視認性と精度が求められるグランドセイコーにはうってつけのムーブメントだった。
2020年、グランドセイコーは新世代のスプリングドライブムーブメントを発表。約5日間という長いパワーリザーブと、月差±10秒という高精度を持つキャリバー9RA系は、スプリングドライブの完成形と呼ぶに相応しいものだった。しかし、グランドセイコーはさらなる高精度機の開発を進めていた。それがキャリバー9RB2である。9RA系が月差±10秒という高精度を持てた理由は、傑作9Fクォーツの温度補正機能などを転用したためだ。スプリングドライブの心臓であるクォーツは、25℃から外れると精度が悪化する。対してグランドセイコーはICによる温度補正を加えることで、精度をさらに追い込んだ。しかし、1日に540回もの温度補正を行うと消費電力が増えてしまう。低電力で動くスプリングドライブには搭載不可能と言われてきたこの機能が、まさか製品化されるとは、誰が想像しただろう?
理論上は、年差の精度を狙える9RA系だったが、グランドセイコーはあくまで月差±10秒という打ち出しに留めた。理由は年差を実現する9RB2を開発していたため。温度補正機能を加えたICと水晶振動子(クォーツ)を真空のパッケージに収めるのは9RA系に同じ。しかし水晶の製造方法を変えて品質を安定させ、さらに9Fクォーツに同じく長期間のエージングを加えることで、水晶の経年変化を緩やかにしたのである。そして選抜を経たもののみが製品に使われる。
9RB系はもちろん、9RA系などグランドセイコー用のスプリングドライブを開発してきたのが、セイコーエプソンの平谷栄一氏だ。「9Fクォーツは電圧が高いのでICに温度補正機能を加えられたのです。しかし、スプリングドライブの電圧と電流は9Fクォーツの6分の1。9RA系への搭載は大変でした」。加えて平谷氏はICと別々に配されていた水晶振動子を真空のパッケージでひとつにまとめ、補正情報を伝わりやすくした。

ここからが9RB2の新しさだ。確実に年差を狙うため、技術陣はさらなる改良を加えた。そのひとつが、水晶振動子の製造方法だ。「今までの製造方法では水晶振動子の内部にわずかに応力が残るのです。その歪みが徐々に解放されると、水晶振動子の振動数が変わり、狂いの原因になってしまう」(平谷氏)。より狂いにくい心臓を得るため、切削方法含め製造方法全体の改良を行った。

ここまで手を打っても、遅れと進みが生じる可能性は残る。そこで平谷氏率いる技術陣は、機械式時計に同じく、遅れと進みを調整できる「緩急スイッチ」を9RB2に加えた。つまり、精度を落とさない機能を重ねた上で、万が一の「安全機構」として調整機能も加えたというわけだ。合計12ステップ、1ステップごとに年で秒単位の調整が可能な緩急スイッチは、確実に年差を実現する大きな鍵となった。ここまでの手の入れ様を聞けば「9RA系は月差を突き詰めたもの、対して9RB2は年差を実現するムーブメントです」と平谷氏が語ったのも納得だ。
しかも9RB2は、直径37mmのケースに収まるほどコンパクトなのだ。これもまた、「異次元」の試みなのである。
(右)2020年発表のキャリバー9RA 系は、直径34mmという大きなサイズを生かして、長いパワーリザーブを生み出すデュアルサイズバレルと、まったく新しいIC 真空パッケージの搭載が可能になった。理論上は極めて高い精度を誇るが、グランドセイコーの公称する精度は月差±10秒と控えめだ。スプリングドライブ自動巻き。38石。パワーリザーブ約120時間。
さらなる小型化・薄型化への挑戦
年差±20秒を実現するために、さまざまな機構を盛り込んだキャリバー9RB2。しかしムーブメントのサイズは、2004年のキャリバー9R65よりも薄くコンパクトだ。しかも、パワーリザーブは約72時間を維持している。高精度と小型化・薄型化という相反する要素を高度に克服できた理由は、20年以上にわたるスプリングドライブ開発のノウハウだった。
ゼンマイ駆動の量産機としては、掛け値なしに世界最高の精度を誇るキャリバー9RB2。しかし、このムーブメントで見るべきは、そのコンパクトさにもある。主ゼンマイのほどける力で針を動かし、その余力で電力を生み出してIC動作および水晶振動子を振動させ、針を一定のスピードで回転させるスプリングドライブ。機械式時計に比べてはるかに正確に時を刻む理由は、水晶振動子の高い振動数と、ICによる精密な制御のおかげだ。しかしその代償として、心臓部であるこの「トライシンクロレギュレーター」は半分近くを占めるほど大きい。今回、セイコーエプソンの技術陣が挑んだのは、年差±20秒という高精度を、可能な限り小さなサイズで実現することだった。その高性能を考えると、9RB2の直径30mm、厚さ5.02mmというサイズは驚くべきだ。
まず技術陣が取り組んだのが、9RA系ではふたつだった香箱をひとつにまとめることだった。一見簡単そうに思えるが、主ゼンマイのトルクが落ちると、スプリングドライブは発電量が下がって止まってしまう。そのため、直径14.5mmの極めて大きな香箱に、長くて薄い主ゼンマイを押し込むという新しいアプローチが選ばれた。そしてムーブメントを薄くするため、香箱自体の厚みはわずか1.2mmに抑えられた。ゼンマイの高さや厚さが減るとトルクは減じてしまうため、水晶振動子だけでなく、温度補正を加えたICにも電力を供給するには不十分だ。しかしセイコーエプソンはさらなる省電力化を推し進めることで、今までにないアプローチに至った。その証拠に、主ゼンマイから輪列への増速比は、既存メカ時計の7~7.5に対して、8.5~9とかなり高い。つまり、より高い性能を持つにもかかわらず、主ゼンマイのほどけるスピードを落とすことで、パワーリザーブは長くなっている。「公称のパワーリザーブは約72時間。しかし設計上は100時間近く動かせますよ」(平谷氏)。
部品単位でも見直しが図られた。例えば、回転錘の回転を主ゼンマイに伝えるマジックレバー式自動巻き。9R6系に比べて30%小型化する一方で、設計パラメーター変更や回転錘をタングステン一体型にすることで巻き上げ効率を改善してみせた。
回路自体の進化も、直径37mmという小さなケースに寄与した。ムーブメントに電子回路を持つスプリングドライブは理論上磁気に弱い。これまでは、ムーブメントの外周に、保持リングを兼ねた軟鉄製の耐磁リングを加えて対処していた。しかし、耐磁リングの役割をムーブメント内部に分散してレイアウトした結果、9RB2では余計なリングが不要となった。耐磁部品がムーブメント内に押し込まれたため、時計の組み立ては難しくなった。しかし、設計・製造・組み立てがインハウスで連携を密に取れるセイコーエプソンには、決して難しい課題ではなかったのである。

ユニークな回転錘も薄型化と小型化の一因だ。中を大きく抜いたのは美観のためと、回転錘を薄く軽くする一方、回転時の慣性を増やすため。回転錘全体を硬くて重いタングステン合金製にすることで、美観と薄さ、そして高い巻き上げ効率を満たせるようになった。
年差±20秒という高精度に加えて、小さなケースに合うよう新設計された9RB2。すべてを高水準で保つという、グランドセイコーの思想が結実した傑作だ。
視認性・審美性・装着感を追求した外装デザイン
視認性・審美性・装着感を追求した外装デザインスプリングドライブ U.F.A.を搭載した今作において、ブランドが目指したのは“グランドセイコーらしさ” をさらに突き詰めること。そのため、エボリューション9スタイルを踏まえたそのデザインは、より一層、視認性と審美性、そして装着感を改善するよう手が加えられた。この腕時計で語るべきは、中身はもちろんだが、全体のパッケージなのである。

今やグランドセイコーの顔となった「エボリューション9 コレクション」。グランドセイコーならではの立体的な造形と高い視認性に加えて、薄くて重心の低いケース、幅の広いブレスレットがもたらす優れた装着感は、グランドセイコーの基準を一段引き上げた。今回の新作も、そのデザインはエボリューション9スタイルに倣ったものだ。もっとも、ケースサイズはSLGA021に比べて3mm小さい。「実はSLGA021の直径40mmもかなり詰めたデザインなのです」と語るのは、グランドセイコーのデザインに携わってきた吉田顕氏だ。「厚みに関しても堅牢性や防水性を確保しながらも限界まで薄型化を狙いました。しかし、グランドセイコーの定める機能やアフターサービスを考慮すると、薄くできる数値には限界がありました。実際、SLGA021から0.4mm薄くなっていますが、縦横比で考えると新作のケースは小さい分、比較するとわずかに厚みを感じさせてしまいます」。

普通、こうなると時計はぼってりと見えるが、決してそう感じさせないのがデザインの妙だ。両者のケースは、同じように見えてまったく違うのだ。吉田氏が取り組んだのが、ケースサイドの処理。デザイン自体はSLGA021に同じだが、厚みを感じさせないよう、側面を細くし、下側の斜面をわずかに厚くした結果、ケースは薄く感じられる。
風防は、ボックス状のサファイアクリスタルを採用し、立体感のある造形となっている。といっても、レトロに見えるほど立体的ではなく、また斜めから見たときでも視認性が悪化しないよう、角が張っているのも特徴だ。その結果、ベゼルの厚みは抑えられ、文字盤外周の見返しも薄くなった。そして、ベゼルの高さを抑えることで、文字盤にはより多くの光を取り込めるようになった。
加えて、開口部の広い大きな文字盤と、長い針のデザインとするために、針を付けた状態のムーブメントを風防側から取り付ける構造を採用した。通常は風防付きのミドルケースに裏蓋側から針の付いたムーブメントをケーシングするが、開口部の広いデザインとするために、風防側から針の付いたムーブメントをセットして裏蓋側から固定するという手間のかかる構造をあえて選択したという。
実用性への配慮も一層際立っている。今回、ブライトチタンモデルに採用されたのが2mm単位で3段階のスライド調整ができるバックルだ。開発に3年かかったというだけあって、チタン素材にもかかわらず操作感は非常に良好だ。また、微調整中留は4000回(4000往復)のスライドテストを行ったというから耐久性も十分だ。
グランドセイコーの見識を感じさせるのが、ブレスレットの幅である。ケース側20mm、バックル側18mmというサイズは、バックル側に絞ったブレスレットが多い今となっては、良い意味で普通だ。絞るとドレッシーには見えるが、どうしても頭が重くなってしまう。ドレッシーに見せつつ、実用性を損ねない絞り方は、今のグランドセイコーらしい匙加減と言えるだろう。軽い素材と相まって、装着感は一層優れている。
お家芸である立体的な文字盤も進化を遂げた。今回、文字盤のモチーフに選ばれたのは、スプリングドライブの製造地である信州の樹氷林だ。霧ヶ峰高原に見られる薄氷をまとった針葉樹林をキャリバー9RB系の超高精度と、無音で動くスプリングドライブに重ねた、とデザイナーの吉田氏は説明する。プレスで深くパターンを施すのは従来のモデルに同じ。しかし、表面仕上げにあえてホーニング加工を加えることで、下地を半ツヤ消しに抑えている。強いパターンにもかかわらず、インデックスが埋没しない理由だ。

文字盤の塗装にも創意工夫が凝らされた。表面に吹くクリア層の下にパール塗料を吹き付け、風によって樹氷林からはがれた薄氷がキラキラと舞う様を表現。クリアの下にパール塗装を施すことは少なく、薄いブルーにわずかにパール塗装を吹くことで、薄氷が舞う煌めきを表現した例は、グランドセイコーでもほとんどない。
年差±20秒という異次元の高精度で、今年の時計見本市の話題をさらったスプリングドライブ U.F.A. 。もちろん、現実的に超高精度を実現したキャリバー9RB2というムーブメントは傑出している。しかし一層見るべきは、その超高精度機を巧みにまとめ上げたグランドセイコーの手腕だろう。あらゆる要素をこれほど高い水準にまとめ上げた実力こそ、今年の新作最大の見どころなのだ。
この新作は、精度だけを謳い文句にしたレーシングマシンでは決してない。これは、超高性能にもかかわらず、そのことを感じさせない、今までに存在しなかった新時代の高級腕時計なのである。

SLGB001:https://www.grand-seiko.com/jp-ja/collections/slgb001
SLGB003:https://www.grand-seiko.com/jp-ja/collections/slgb003
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