まるでマジックのように、針が宙に浮いているように見えるカルティエのミステリークロック。かつては王侯貴族など限られた顧客のために製作された、極めて高価な時計であったため、長らく一般の時計愛好家から注目されることはなかった。しかし2022年、ボナムズ香港の時計オークションに出品された際には記録的な価格で落札され、その評価は新たな局面を迎えている。ボナムズ香港で時計部門を率いるシャロン・チャンが、この神秘的な時計の歴史と高まりつつあるその評価を語る。
Text by Sharon Chan(Bonhams Hong Kong)
[2025年10月15日掲載記事]
浮遊する時間の魔法。カルティエのミステリークロック
カルティエと聞いて、最初に思い浮かぶのは何だろうか。宝石をふんだんにあしらった最高級ジュエリー「トゥッティフルッティ」か、レクタンギュラーケースを採用した、アイコニックな「タンク」か。いずれも名作であることは疑いない。
だが人々を最も驚かせ、今なお神秘的な魅力を放つ存在といえば、ミステリークロックではないだろうか。精緻な工芸と宝飾の美、革新的な時計技術を融合したこの作品は、誕生から1世紀以上を経てもなお人々の心を魅了し続けている。
奇術師の発想から生まれたミステリークロック
1912年、当時の当主ルイ・カルティエは時計師モーリス・クーエに依頼し、フランスの奇術師ジャン・ウジェーヌ・ロベール=ウーダンの発想を基にカルティエ独自のミステリークロックを創作させた。針は複数枚の水晶製透明プレートの間に固定され、歯車などのムーブメントはベース部分に隠されている。
ムーブメントが作動すると輪列が水晶プレートをわずかに回転させ、針は宙に浮いて時を示しているかのように見える。発表されるや否や上流階級に熱烈に支持され、「欧州一の美女」とうたわれたグレフュール伯爵夫人やアメリカの金融王J.P.モルガンもその虜となったとされる。1925年には高級モード誌『ガゼット・デュ・ボン・トン』が「時計史の奇跡」と称賛したほどだった。
限られた人のための芸術品からコレクターズピースへ
従来、カルティエのミステリークロックは王侯貴族や社交界の名士のための存在であり、時計コレクターの関心を集めることは少なかった。しかし近年、収集の対象はより広く、独自性や歴史的意義を持つミステリークロックのような作品へと拡大しつつある。
ミステリークロックの製作数はごくわずかであり、そのひとつひとつが職人技の結晶だ。七宝による彩色をまとったもの、中国の翡翠を組み込んだもの、日本文化の鳥居を着想源としたものまで存在し、いずれも現代のコレクターが求める要素を備えている。
ロンドンで出合った「モデルA」
先日英国・ロンドンを訪れた際、ヴィクトリア&アルバート博物館で開催されていたカルティエの展覧会を鑑賞した。展示の中央でひときわ目を引いたのが「モデルA」ミステリークロックであった。
モデルAとは、最初期に製作され、初代ミステリークロックと同系統の設計を持つシリーズを指す。当時は王室や貴族などのためだけに特注されたもので、英国王ジョージ5世の妃メアリー王妃も所有していた。すなわちモデルAは単なる工芸品ではなく、歴史と文化を背負う存在である。
2022年には1928年製の初代モデルAがボナムズ香港で競売にかけられ、687万香港ドル(約1億3341万5400円、1香港ドル=19.42円、2025年10月15日現在、手数料込み、以下同)で落札された。これは同モデルのオークション記録を更新するものであり、ミステリークロックがトップコレクター垂涎の的となったことを証明したのだ。

2022年にボナムズ香港に出品された、カルティエの「モデルA」ミステリークロック。ごく少数製作されたものであり、各個体の仕様はすべて異なる。このモデルの台座には、下部に金のビーズで縁取りが施された、ブラックオニキスが採用されている。この時計は、当時687万香港ドル(約1億3341万5400円)で落札された。
再び市場に現れる幻の逸品
2025年11月、ボナムズ香港の時計オークションにおいて再び、モデルAミステリークロックが出品される。その外観はヴィクトリア&アルバート博物館で見た展示品とほとんど同じである。ホワイトオニキスのベースにゴールド、プラチナ、そしてエナメルの装飾をあしらい、針にはダイヤモンドがびっしりとセッティングされている。

2025年11月25日開催予定のボナムズ香港の特別ウォッチオークションに出品予定の「モデルA」。1918年頃に製作された個体で、台座にはホワイトオニキスが使用されており、2022年に出品されたものとは細部が異なる。オークション時の推定落札価格は、200万〜400万香港ドル(約3884万〜約7768万円)だ。
コンディションも申し分ない。真のコレクターにとって時計収集は虚飾のためではなく、作品を通じて心を動かされる体験を得る行為だ。その感動は精緻な手仕事、奇想天外な機構、あるいは歴史的な記憶に由来する。数多くの時計を棚に並べるよりも、博物館級の1点に心血を注ぐことの方が、より深い満足感をもたらすのではないだろうか。
著者「シャロン・チャン」プロフィール
シャロン・チャンは、アジアにおけるボナムズ時計部門のディレクターである。香港を拠点に、アジア太平洋地域の事務所と密接に連携し、同部門が年に10回開催するオークションの監督を務めている。

2017年から18年にかけて、シャロン・チャンはウォッチディーラーおよびクライアントコンサルタントとして独立し、専門家としての地位を築いた。その後、ボナムズに入社してオークションビジネスに復帰。豊富な経験と幅広い人脈を生かし、世界中のコレクターと強いネットワークを築きながら、アジアの時計市場拡大において重要な役割を果たしている。
これまで多くの国際的なオークションハウスでのジュエリーと時計のオークションビジネスにおいて、17年以上の経験を積み、2011年から16年にかけては、香港で時計オークションを指揮。売り上げを年々拡大し、13年にはアジアでの時計販売で最高額を達成した。また、世界最大級のプライベートウォッチコレクションの監督責任者を務め、15年のオークションで600万USドルという新記録を打ち立てた。