350年前、クリスティアン・ホイヘンスは「ヒゲゼンマイ」を発明し、機械式時計の精度を飛躍的に向上させた。この発明は天文学、航海術、そして科学全体の発展を支え、今なお現代の機械式時計の心臓部として脈打っている。2025年、スイスのラ・ショー・ド・フォン国際時計博物館(MIH)ではヒゲゼンマイ完成350周年を記念した特別展を開催。これに続き、東京・日本橋三越本店ではMIHの資料協力の下、特別展「星が時を語る──ホイヘンスと時計の起源、そして未来へ」を開催中である。時間計測の源流を、今こそ振り返りたい。

Photographs & Text by Tomoyo Takai
[2025年11月29日公開記事]
クリスティアン・ホイヘンスのヒゲゼンマイ誕生350年記念によせて
2025年は、クリスティアン・ホイヘンスがヒゲゼンマイを発明してからちょうど350年の節目にあたる。時計の心臓部とも呼ばれる調速機構に革命をもたらしたこの発明は、機械式時計の精度を劇的に高め、人類が「時間」を正確に捉える時代を切り開いた。その偉業を記念して、スイスのラ・ショー・ド・フォン国際時計博物館(MIH)は2025年春から秋にかけて、ヒゲゼンマイの技術史とその進化をテーマにした特別展を開催した。1675年のホイヘンス草稿や17世紀の初期ヒゲゼンマイ時計をはじめ、素材の変遷、温度補正、耐磁化研究に至るまで、学術色豊かな展示が行われた。



ホイヘンスはなぜ時計に挑んだのか
ここで改めてヒゲゼンマイの役割とその誕生の背景について振り返りたい。ヒゲゼンマイとは、機械式時計におけるテンプの振動を一定に保つための渦巻き状の細いバネを指す。時計内部で往復運動するテンプの中心に据えられ、復元力によってその振動周期を安定させる役割を果たす。この仕組みが整う以前、携帯時計は大きな誤差を抱えており、日差が数十分から数時間に及ぶことも珍しくなかった。それに対してヒゲゼンマイの発明は、日差数分の精度を実現し、携帯時計を初めて実用の域へ押し上げた。現代の機械式時計では素材が変化し、鋼鉄や金からニヴァロックスのような合金、シリコンやカーボンなどの新素材へと置き換わったものの、基本原理はホイヘンスが示したものと変わらず、人類は3世紀半もの間、この仕組みを受け継いでいるのである。

ホイヘンスがこの発明に至った背景を理解するためには、350年前の世界を思い描く必要がある。17世紀後半のヨーロッパ、とりわけオランダは「オランダ黄金時代」と呼ばれる繁栄の最中にあり、海運と商業が国力の源泉を成していた。大航海時代の後期にあたり、船舶は遠洋航海に挑み、世界各地と交易を結び、国は富を蓄えていた。しかしその一方で、航海技術の根本課題として「経度測定問題」が横たわっていた。海上では陸のように目印となる基準がないため、精密な時刻が分からなければ現在位置を正確に求めることができない。大国は経度を正確に測るための時計の開発に力を注ぎ、技術者には莫大な報奨金が約束されたほどである。
こうした社会状況のなか、ホイヘンスは1629年にオランダの知識人サロンを形成していた家に生まれた。父コンスタンティン・ホイヘンスは外交官であり、詩人であり、学者でもあったため、ホイヘンスの青年期には多くの知識人が家を訪れ、豊かな知的刺激が自然に与えられていた。宗教改革後の知的自由の高まりを背景に、欧州の才知ある人物がオランダに集まり、当時のオランダ社会は学問を推し進める理想的な環境であった。

その環境で育ったホイヘンスは、天文、数学、物理学といった諸学を広く学び、いずれも高い水準で身に付けた。土星の衛星タイタンの発見、土星の環の解明、光の波動説など、天文学・光学・物理学のあらゆる分野で不朽の業績を残した彼が、なぜ時計に注力したのか? それは「自然を統一的に理解したい」という姿勢にあったのではないだろうか。自然哲学が分化していなかった時代において、彼は時間、光、運動、天体の法則などを横断的に研究する必要があると考えていたのである。その上で、精密な時間計測が不可欠だったのだ。
ガリレオが示唆した振り子の等時性を応用し、1656年に世界初の実用振り子時計を完成させたホイヘンス。しかし振り子は重力方向に依存するため、携帯や船上には使用できず、振り子に代わる調速機構の開発が不可欠であった。そこでホイヘンスはテンプの往復運動に目をつけ、これに一定の復元力を与えるバネとしてヒゲゼンマイを構想した。1674年に理論を完成させ、1675年にパリで特許を取得、時計職人アイザック・テュレ(Isaac Thuret)による試作機が製作された(ロバート・フックとの優先権争いもあった)。この発明が時計の精度を飛躍的に高め、海上航海や科学観測に革命をもたらしたという事実は、時計史における最大の転換点のひとつとして記憶されている。
現代に生き続けるホイヘンスの思想
350年後の今日、ヒゲゼンマイの基本構造は機械式時計の中心に生き続けている。素材も加工技術も進化したものの、「規則的な振動を生む渦巻きバネ」という思想は不変だ。科学史において、これほど長く原点が守られ続けている例は極めて稀である。

日本橋三越本店 ウォッチギャラリーで開催されている特別展「星が時を語る―ホイヘンスと時計の起源、そして未来へ」の特徴は、単なる時計展示に留まらず「時間計測の歴史」を体感できる構成にある。さらに注目すべき独自性は、参加する時計師たちが本展のために直筆の手紙を寄せている点だ。手書きの文字から伝わる個性と温もりが、作品に新たな物語を添えている。


歴史の積み重ねを理解したうえで本展を訪れるならば、展示される時計の背後にある物語がより鮮やかに立ち上がってくるだろう。単なる美しい工芸品としてではなく、人類の知恵が積み重ねられてきた結晶として時計を見つめることができるはずである。ホイヘンスの精神は、今日もなお機械式時計の鼓動の中で生き続けている。

「時の起源=天文学」特別展、「星が時を語る―ホイヘンスと時計の起源、そして未来へ」
■開催概要
開催期間: 2025年12月2日(火)まで
会場:日本橋三越本店 本館6階 ウォッチギャラリー/cal.BAR/プロモーションスペース
協力団体:
- ラ・ショー・ド・フォン国際時計博物館(MIH)
- ハーグ時計財団(Stichting Haegsche Tijd)
- 明石市立天文科学館
- 名古屋市科学館
- 一般社団法人日本時計輸入協会



