スイス・ジュウ渓谷のル・ブラッシュに位置する、ブランパンの工房「ファーム」。針葉樹に囲まれたこの地で、その静けさからは想像もつかないような偉大なるコンプリケーションウォッチが生み出されていた。その腕時計とは、ふたつの“メロディー”を奏でることのできる、「グランド ダブル ソヌリ」である。
Photographs & Text by Chieko Tsuruoka(Chronos-Japan)
[2025年12月24日公開記事]
ふたつのメロディーを選択できる「グランド ダブル ソヌリ」
ブランパンは2025年11月、「グランド ダブル ソヌリ」を発表した。本作は、毎正時と15分ごとにメロディーを奏でるグランドソヌリ、毎正時と30分ごとに音を鳴らすプチソヌリ、ミニッツリピーターに加えて、パーペチュアルカレンダーとフライングトゥールビヨンを搭載する、傑出したコンプリケーションウォッチである。
驚くべきは、ソヌリ機構の内容だ。スライダーを下げたり、プッシュボタンを押したりすることでエネルギーをチャージして音を鳴らす、オンデマンド式のミニッツリピーターに対して、ソヌリは毎正時や15分、30分ごとに自動で音を鳴らさなくてはならないため、設計支援システムや工作機械が発達した今なお製造の難しい時計機構のひとつである。しかしブランパンはグランド ダブル ソヌリで、「ウェストミンスターの鐘」の“4小節”を奏でたうえで、さらにはKISSのエリック・シンガーが本作のために書き下ろした「ブランパン」も選曲に加えてしまったのだ。
類を見ない偉業を、ブランパンが得意とする美観を際立たせたコンプリケーションとともに打ち出した本作が生まれたのは、静寂に満ちたスイスのジュウ渓谷であった。本作の複雑さとは対照的なまでにのどかなこの地に位置する、同ブランドのコンプリケーション工房「ファーム」のR&D(研究開発)部門、製造部門、装飾部門で取材したので、本作の製造をかなえたその“偉業”をひもといていく。

手巻き(Cal.15GSQ)。67石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約96時間。18KRGまたは18KWGケース(直径47.0mm、厚さ14.5mm)。10m防水。年間2本生産。受注生産。
ファームで培われた、偉業への道筋
ブランパンの社長兼CEOであるマーク A. ハイエックが、グランドソヌリ開発を決意してから約8年の歳月をかけて誕生した、グランド ダブル ソヌリ。1200の設計図を基に、21の特許技術を生み出しつつ、ムーブメントは1053個、総数は1116個の部品で製造された本作は、ブランパンのファームで設計、組み立て、装飾が行われる。見るべきはグランドソヌリ、そして偉大なるこの機構を、実用的な腕時計で実現したことである。

「4音」のメロディーを「2種」奏でるということ
一般的なミニッツリピーターやソヌリには、ふたつのハンマーとゴングが搭載されている。このパーツが鳴らす「高音」「低音」、そして「打鐘の回数」によって、時刻を音で知らせるという仕組みだ。しかしブランパンが奏でようとしたのは音ではなくメロディーだ。そのため「ミ」「ソ」「ファ」「シ」の4音を奏でるハンマーおよびゴングを用意したうえで、しかも2曲分の旋律を鳴らさなくてはならない。R&D部門では、この難易度の高い挑戦のために、どのようなことが行われたのだろうか?
肝は、クォーターラックだ(この後、“肝”がいくつも出てくるのだが……)。

リピーターやソヌリにおけるクォーター(またはアワー)ラックは、音を鳴らす時間の数だけ歯が設けられ、この歯数に応じた回数分、クォーターラックに接するピニオンを通じてハンマーがゴングを打ち鳴らす。対して本作はメロディーを奏でるために、前述した「ミ」「ソ」「ファ」「シ」の4音のための歯も備えている。メロディーを奏でる以上、音は規則的なテンポでなくてはならない。テンポを一定にするために、ゴングが鳴らした音の周波数を専用の分析器で測定しながら、歯を削って微調整していく。削りすぎた場合はパーツが使用できないため、時計師は顕微鏡越しに、極めて細かな手作業によって調整していくことが求められる。


「ウェストミンスターの鐘」と「ブランパン」の2曲を奏でるために、このクォーターラックは2枚が重なって配されている。それぞれのメロディー選択はケースサイド9時位置のスライダーによって行われるが、内部ではコラムホイールを使って切り替えを行う。スライダーの作動と同時にコラムホイールが動き、選ばれた方のラックが、プログラミングされた音階を鳴らすのだ。なお、ムーブメントの地板や受けは18Kゴールド製だが、ソヌリやリピーター周りを中心に、歯車はステンレススティール製である。また、このコラムホイールのサイズは一般的なクロノグラフ用のものと同一とのこと。

安定したエネルギー供給と美しい音色を両立するために
多くのリピーターやソヌリに欠かせないパーツが、レギュレーター(ガバナー)だ。主ゼンマイの巻き上げ量に左右されず、打鐘速度を一定にするためのレギュレーターにもさまざまな手法があるが、高速回転する重りの遠心力を利用するため、しばしば回転音がゴングの音色に干渉することがある。「美しい音色」を守るために、ブランパンが本作に採用したのが、磁気式レギュレーターだ。磁石をあしらったふたつのパーツを高速回転させることで磁場を生み出し、さらにパーツ同士の磁石が発生させた磁場と抵抗し合うことで調速するという仕組みのこのパーツ。磁場を利用し、物理的な接触がないため雑音が発生せず、また低エネルギー消費であることに加えて、打鐘テンポの精密な調整が可能となっている。2011年にブランパンと同じスウォッチ グループに属するブレゲが「クラシック“ミュージカル”」でこのレギュレーターを採用しており、同一の特許技術とはなるものの、形状はグランド ダブル ソヌリのムーブメント、Cal.15GSQへの組み込みに最適化されている。

なお、本作のグランドソヌリのパワーリザーブは約12時間、プチソヌリは約14時間。この持続時間の中で時刻を知らせる打鐘のほか、 “4小節”分のメロディーも奏でなくてはならない。現在、「ウェストミンスターの鐘」を奏でるグランドソヌリウォッチの多くが3小節のみ。しかし本作は、最後の4小節までを、しっかりカバーしている。そのため最も打鐘が長い12時59分だと22秒間も鳴らしていなくてはならず、主ゼンマイの巻き上げ量に左右されずに、しかもかなりのエネルギーを使いながら一定のテンポで音を奏でなくてはならないこのソヌリにとって、いかに磁気式レギュレーターの存在が重要かは、想像に難くない。
ただ鳴らすだけではダメなんです
ただ音を鳴らすだけではない、美しい音色のための技術にも、ブランパンの創意工夫があふれている。
とりわけブランパンの弛まぬ追求の姿勢が表れているのが、ゴングだ。ブランパンに限らず、チャイミング系の腕時計はゴングやケースに何の素材を使うかが重要視される。一般的には18Kゴールドが多く、ブランパンのこのグランドソヌリも同様に18Kローズゴールド製となったが、この答えを導き出すために、R&D部門では11の原材料を試し、さらにその中から8つを選んで徹底的に調査した。この素材選びでも周波数を分析器を使って測定し、目指す音を的確にとらえるようにしたという。

ゴングの形状も、特許技術だ。4音を奏でるために4つのゴングが搭載されており、それぞれが異なる断面を有している。なお、うちふたつ(「ファ」と「シ」)は一体化されており、省スペース化に寄与している。ゴングの形は同じスウォッチ グループ内、あるいは他社製品を参考にしたか尋ねたところ、「参考にしたものはなく、まったく新しいもの」という。ゴングの取り付けも計算されており、目指す周波数の音を奏でるために、ゴング同士を重ねつつ、しかしクロスさせたり触れ合ったりしないよう、細心の注意が払われている。

ゴングは装飾された後、最後の“調律”に入る。ギターをネジでチューニングするように、定められた周波数からズレのない音程を奏でるかどうかがチェックされるのだ、ユニークなのが、ゴングの断面を削ることで調律するということ。もちろん調整用の工具も、ブランパン自社製である。職人が手作業で行うという伝統的な手法を採る一方で、周波数の計測にはレーザーを使うという、職人技と現代技術の両立ぶりだ。


音質のほかに重要なのが、音量だ。気密性を保ったケースで音を響かせなくてはならないのが、リピーターやソヌリの製造が難しいと言われる要因である。もちろん防水性や防塵性を犠牲にすれば、いくらでもやりようはあるが、ブランパンが目指したのは実用的な腕時計。本作の発表時、そして今回の工房取材中に、ハイエックは「安心して毎日着用できる腕時計」を目指したと語ったように、飾って眺める工芸品のようなコンプリケーションではなく、あくまでデイリーユースできる1本であることが重要であった。そのためブランパンは、本作に18Kレッドゴールド製の薄い膜を、ケースに沿うようにして組み込んだ。この薄膜がスピーカーのようにゴングの振動を拾い、音波を振動としてサファイアクリスタル風防やベゼルまで伝え、十分な音量を響かせることに寄与している。
取材後に本作のメロディーを聴かせてもらった際、本当によく響くので、「これは何デシベルですか?」という質問をした。その回答に、とても感心させられた。「私たちは最近、デシベルで音を評価するのをやめました。高音と低音で聴こえ方も異なってきますし、大切なのは『人の耳にどう残るか』ですから」。


使えるコンプリケーションウォッチとして
繰り返しになるが、本作は超複雑な世界でありながらも、実用性が追求されている。これだけの複雑機構を直径47.0mm、厚さ14.5mmという“使える”腕時計のサイズに収めたことに加えて、製品の上質さで高い評価を得てきたブランパンらしい品質管理が行われている。
例えば本作のムーブメントは音が調整され、組み立てられた後、専用機械で信頼性が検査される。この検査には、大きく分けて「エイジングテスト」と「衝撃テスト」がある。5年間の着用を想定して、7000回以上チャイミング用の主ゼンマイを巻き上げ、ゴングは鳴らさないものの、ハンマーを作動させ続けるのだ。また、1300Gのショックを与えて破損しないかどうかのテストも実施される。

また、ムーブメントを“二度組み”するという丹念さにも驚かされた。本作のムーブメントはチャイミング機構が調整され、すべてのパーツが装飾されて組み立てられた後、また分解され、洗浄されたうえで、再び組み立てがなされているのだ。ブランパンではバネの多いムーブメントは、基本的にこの二度組みを行っているのだという。もっとも本ムーブメントに使用されるバネは50前後に及んでおり、ブランパンのコンプリケーションウォッチの中でも、群を抜いて再組み立ての工程が重要なのだろう。

コンプリケーションにありがちな故障を防ぐために、5つの安全システムが設けられているのも特筆すべき点だ。その安全システムとは、巻き上げ軸に関連するものが「打鐘動作中の時刻設定機能の取り消し」と「時刻設定中の打鐘作動の無効化」、メロディー選択プッシャーに関連するものが「打鐘動作中のメロディー選択プッシャーのロック」と「メロディー選択プッシャー動作中の打鐘作動の無効化」、そして打鐘用パワーリザーブに関連するものとして、チャイミング用パワーリザーブが不足している場合は、チャイミング用の主ゼンマイが巻き上げられない限り、どの打鐘であっても無効化されるというものである。
ブランパンらしさは“美”に宿る
本作はグランドソヌリ機構が目玉であったため、取材のメインはこの部分の技術が占めていたが、他の機構や仕上げのレベルも非凡なものであった。とりわけブランパンの大きな強みである美観の追求は卓越していた。
本作にはチャイミング機構と並んで高い技術力が求められるパーペチュアルカレンダーが搭載されている。これまでのブランパンのパーペチュアルカレンダーは、モジュールをベースムーブメントに組み込むことで実現してきたが、本作は腕時計として常識的なサイズに収めるために、新規開発を行い、一体型とした。手首から大きくはみ出てしまうサイズの腕時計を、クラシカルウォッチを得意とするブランパンは、美しくないとしたのだろう。省スペース化のためにレトログラード式となったカレンダー表示が、肉抜きされたブリッジからのぞく内部機構に干渉されず、すっきりとしたデザインを実現している。

さらに、「シックス・マスターピース」のうちのひとつであり、1989年に発表された「トゥールビヨン」以来、受け継がれてきたフライングトゥールビヨンが併載された。テンプがオフセットされることでガンギ車をはじめとした脱進調速機が効果的に観賞できるこの意匠に、ブランパンらしさを感じる時計愛好家は少なくないはずだ。

ムーブメントの1053個すべてのパーツが、もちろん見えないところまで含めて、高級機らしい仕上げが施されているということも本作への所有欲が大いにかき立てられる点だ。
ファームで装飾を手掛ける職人は計7人で、厳密に定められた要件の下、多くの工程が手作業で仕上げられている。ひとつの時計にかかる装飾の時間は、約460時間だという。
現在ではCNCマシンによる加工や仕上げが高級時計でも一般的になってきたが、ブランパンのように複雑な形状も珍しくない金属パーツの内角を削るのは手作業でしか行うことができない。また、機械仕上げでは実現し得ない、丸く、しっかりと戻り角を有した面取りなども、手作業ならではだ。

要件の厳しさは、ペルラージュの大きさやコート・ド・ジュネーブの幅にまで及ぶ。厳密に規定された装飾を持つがゆえに、多数のパーツが寄せ集まっても、そのひとつひとつが存在感を放つのだろう。


ル・ブラッシュで、ウォッチメイキングの歴史は続ていく
スイスのル・ブラッシュに構えられた工房「ファーム」から、ブランパンが生み出した「グランド ダブル ソヌリ」を取材・報告した。
本作の驚くべき機構、そして美観は、静かな山あいで作り上げられた。この静けさの中で偉大な仕事を成し遂げるというのは、いかにもブランパンらしい。決して目立った派手さはないものの、着実に進化し、半面、高級時計にふさわしい、伝統的な装飾技術も絶えず磨いていく。そんな姿勢から生み出された上質な腕時計が、目利きの多い日本の時計愛好家を引き付けてやまないのだ。
すでに雪深くなっているであろうル・ブラッシュでは、今日もブランパンの時計職人たちが、自分たちの仕事に励んでいることだろう。そしてその偉大な仕事は、今後もずっと続いていくに違いない。



