そして第三の理由は、かなり切実なものであった。常にきらしたことのなかった、凍頂烏龍茶が、もう残り少なくなっていて、どうしても手に入れたいと思っていたのだ。
我が家の茶の消費量は、かなりなもので、月平均600グラムは下るまい。およそ1斤の大袋がなくなる。しかも烏龍茶だけではなく、珈琲もかなり消費したうえでの分量だから、少人数の家族の割には多い。我が家に来る人々にも、烏龍茶人気は高くなってきたから、これからはますます、茶葉を切らさぬように心掛けねばならない。
日本で出廻っている品は、ほとんど良くない。色ばかりで香りや風味が劣悪で、あれでは烏龍茶の名が泣くのだ。
凍頂とは、文字通り、凍えつくような気候の高地でなくてはならない。そしてその語の源は、南投県の凍頂山に発するのだ。
台湾の土地の5割5分までが山地であることは、地図を見ればわかる。しかもかなりな高山が、中央にはひしめいているのだ。凍頂山はさほどの高山ではないが、1年中霧におおわれた山で、その厳しい気候の中から、良質の茶が生まれるという。
凍頂山山麓の鹿谷がその主要産地で、僕が今から5年前、はじめて義父にいただいたのが、この鹿谷産であった。
国立故宮博物院刊の茶の本『三希堂茶話』によると「茶の葉は緑色を帯びてねじ曲り、金色あるいは黄褐色を呈する、香ばしさとほのかな甘さがあり、南投県鹿谷郷に産する。湯温は95度」とある。湯温は、日本の緑茶に比べると、はるかに高い。同じ先祖の木でありながらも、中国と日本の茶は、今では全く別の物になったのかも知れない。ともあれ茶の補給という大きな目的をもって、我ら一家は、羽田から中華航空の客となったのだった。
1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、マガジンハウスの『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
1970年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。