松山猛の台湾発見 第3回 <まずは茶について知る>

2018.04.14

茶店に並ぶ、バリエーション豊かな茶壷(ちゃふう)。明代以降、江蘇省宜興で産出される陶器用の土「紫砂(しさ)」で作られた茶壷が有名。素焼きの茶壷は茶葉の香りを吸収するので、同じ分類のお茶専用に使う人が多い。

 一週間はあっという間に終わろうとしていた。僕らは台北で、茶器を揃えたり、極上の茶を探していた。鹿谷産の物は親戚や知人が、すでに3斤も、土産にと持たしてくれていたがそれでもまだ足りないような気がしていたのだ。天仁茗茶は台北に数十軒もある店で、ここの天霧茶や茶王は評判が良い。
 西門街の一軒を訪ねてみると、その応対は親切をきわめ、快い買物ができた。新しい茶壷(急須のこと)もひとつ手に入れた。濃い緑の地の物で、ちょうど4人くらいの茶をいれるのに良い大きさだ。茶壺と茶池(熱湯をいれて、茶壺や碗を温める器具)や茶碗が組み合わせになった物もあったが、すでにもっているものとかわらなく思え、それに荷物もすでに多くなりすぎていたので断念することにした。
 ものの本によると、中国でも北方の人は、いわゆる磁器の茶道具を昔から用い、南方では朱泥などの、温和な感じの道具を愛用したらしい。僕は今、茶をいれるためには朱泥製の茶壷、そして直接口に当てる茶碗を磁器という使い方に、自分流の茶を遊んでいる。
 茶碗の方は、圓山台飯店のショッピングアーケードに、成化年製の物などがあったが、あまりに高価で手が出ない。成化物のレプリカは、技術的に劣り、気がすすまない。結局中華商場に、何軒か並ぶ古玩屋に行って、清末期から中華民国初期にかけての染付けの茶碗を手に入れた。

 不思議な人物の描かれた茶碗で、坊さんなのか道士なのか、4人の人物が座っていて、手に飯茶碗とおぼしき物を持つ者、着物を半分ぬぐようにして腹を見せている者などがいる。その半裸の人の腹に、太陽なのか何なのか、円の中に顔が描かれていておかしいのだ。底には「若深珍蔵」と銘がある。この銘の物はそれから日本でも、度々見るようになったが、印刷手の物も多いから、やはり中華民国以後の物かと想像している。時代が古い物には、資料が多いが、近代の物にはそれがなく、ちょっと調べるのに都合が悪い。どこかに良い本はないものだろうか。
 旅の最終章になって、僕ははじめて故宮博物館へ出かけた。桜も終わりの頃だったが、展示を見終わった後、4階の「三希堂」という喫茶室に行った。そこにあった福寿茶の味は、なんと表現すれば良いのか、魂までときほぐされるその味に、ぼくらは驚いてしまった。上には 上があるのだな、と、妻と僕はその茶の風味に圧倒され、上には上があるな、と笑ってしまった。
 中国では、茶にのめり込むと、財を失うとよく言われるが、もとよりなくす物とてそうあるわけではないから、こちらはいたって気楽なものである。

 これからも、こうして時折は、茶を探す旅をすることになるにちがいない。小雨の中を空港に向けて走るタクシーの中で、はやくも次の台湾への旅の予定をたてている自分が、おかしかった。

台北の商業施設「中華商場」で筆者が見つけた茶碗。ユニークな姿をした4人の人物が描かれている。ちなみに「中華商場」はすでに取り壊され、現在は存在しない。
松山猛プロフィール

1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、マガジンハウスの『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
1970年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。