Photograph by Kazuo Kikuchi
8月の末(編注:1980年)、僕は再び宝島台湾への旅に出かけた。空港に着くと、なんだかカウンターがさわがしい。どうやら大型台風の影響で、運行スケジュールに変更があったらしい。
午前10時半の便が、午後1時になると言う。それくらいならば、しかたがないと、寿司屋に陣取って、時の経つのを待った。
ところが、1時になっても結局は飛べぬ。飛べぬわけで、日本の空は雲ひとつない、美しい晩夏の空であるのに、台湾にはその時、風速40メートル/秒という、とてつもない強烈な暴風が、接近しつつあったのだ。
1週間の予定しかなかった。着いたその日に、東海岸の花蓮に飛ぶ国内線に乗り継ぎ、その翌朝に開催されるアミ族の豊年祭を見るつもりだった。多分、予定は大幅に変更せねばなるまい。そんなことを考えながら、用意してもらった空港近くのホテルのベッドの上で、うとうとと午後の眠りにとらわれていったのだった。
夜の8時になって、ようやく搭乗案内があり、少なくとも予定した日のうちに、台北へは出かけられそうだった。ところが、いっこうに機は飛ぶ気配を見せぬ。やがてアナウンスがあって、乗客のひとりが乗り込んでいない、昨今の事情もあって、一度全乗客の荷物を降ろして、チェックをしたい。要するに爆弾テロなどあっては大変との配慮らしい。
乗客はどよめき、あきれ、落胆し、そしてもっとひどいこともこの世にはあるのだからという気分に落ち着いた、そんな感じがあった。
ところがそのとたん、ミッシングしていた乗客が見つかったとのアナウンス。機は遂にランウェイに出た。
ああしかし、偶然は重なるものである。乗客のひとりが、高血圧の発作を起こしたのだ。再び機は搭乗口へと帰った。
病人が車椅子で酸素吸入を受けながら降りた。不測の事態にそなえて、新しい酸素ボンベが積まれ、ドアがロックされた。