筆者が今回降り立った台湾桃園国際空港は台湾北部の桃園市に位置する。台北市へのアクセスには若干の距離があるが、空港施設の充実したサービスとフライトの多さに利用者が多く、また空港と台北市内を結ぶMRTが2017年に開通したことでより利便性が高まった。
台北松山空港は台北市内にあるため、市街地までのアクセスに優れる。
他には台中市内に台中国際空港、台湾南部に高雄国際空港がある。
そして、飛んだ。
車輪が収められる音がした時、乗客たちの間から拍手が湧いた。普通なら、無事に着陸した時に拍手が出るのだが、この時ばかりは、やあ、本当に飛んだぞと、皆は子供のように手を鳴らし、破顔し笑ったのである。もちろん僕も手を打った。
半日も待たされた身には、3時間の飛行はあっけないくらいのものだ。桃園の中正空港(現:台湾桃園国際空港)に着き、ホテル行きのバスに乗って市内に入ると、いつもより少し街が暗い。多分、台風のせいなのだろう。同行の清君(編注:友人の編集者)に、もっと明るく、きらめく街なんだよと、言わでもがなの説明をしている自分がおかしかった。
「なんだか腹へんないか」
「そういえば、ちょっとね」
「どこか屋台でも探してみるか、とりあえずチェックインしてさ」
台北火車站、つまり台北駅のすぐ近くの、古ぼけたホテルに荷物を置くなり、僕らは外に出た。1ブロックほど歩くと、1軒の屋台が出ていて、タクシー運転手たちが溜まっている。こういう店はたいてい旨い物を出す。そんな直感があった。
妙に暗い、深夜の路上ですする米粉の味は特別だった。それにまわりに居る台北人たちも、夕方まで吹き荒れた大風に、どこか放心した面もちでもあり、それは日本でも、かつて何度か自分が体験した感覚でもある。数年前の台風の後、都心を歩く人びとの髪形が、風と湿気で妙によじれているにもかかわらず、口もとには、なにか晴々とした微笑が宿っている。みんな無言のうちに、すごい天と地のドラマを、共同体験したのだと、眼と眼で語り合う。そんな感じが、台北の夜にもみなぎっているのだった。
この孤独な時代、人びとが共同の体験をするのは希有なこと。あまり被害の大きくない台風などは、急速に人なつっこい夜を演出してくれたりもする、と思った。
1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、マガジンハウスの『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
1970年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。