遠い物へのあこがれが、そのままかたちになったような、それらの石は、古代の人びとを魅了しただろう。石器から青銅などの金属に時代が変わるうちに、神世に近く存在した、自らの祖先たちが道具とした、玉製品があがめられ、祭器となったのは自然である。
石器の名残りをもつ祭器のひとつに圭(けい)がある。この長方型の祭器は、新石器時代の石斧から変化したものだが、実際に古代の人も、より硬い石質を探し求めて、玉を用いて斧を作ったことが、出土品からうかがえるのだ。
そして、その実用具が、信仰の中にとり入れられた。なぜなら天地の恵を得る道具こそ、人間の生存を可能にしてくれる、力の根元であったからだ。だから古代中国の天子は、圭や壁を祭った。それらには、六瑞、六器があった。六端は王および、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵など、五爵のための瑞玉である。これには鎮圭(ちんけい)、桓圭(かんけい)、信圭、躬圭(きゅうけい)、穀壁(こくへき)、蒲壁(ほへき)の名がある。
また六器とは、天地四方を祀る、蒼壁(そうへき)、黄壁(おうばく)、青圭、赤、白、玄黄(げんこう)など六種の玉であるらしい。
「君子守身如執玉」という言葉は、生命と同じように、中国の王侯が玉を取り扱かったということか。
これと同じような祭器の話が、古代バビロニアにもあって、天を祭るには壁のような、蛇の目風に穴のあいた青玉をにぎり、地を祭るには黄色の八角形の玉器を持ち、東には緑色の玉製の刀、西には勿状の赤玉、南の方向には虎の形の白玉、北には新月形の黒玉を持って祀った。バビロニアの王様も、玉なしにはいられなかったわけだ。多分、このバビロニアの思想が、いつの日か中国に伝えられたものなのだろう。
その玉の神秘さは、ただ祭器のような特別の物にとどまらず、珮玉(はいぎょく)と呼ぶ飾り物にして帯に挟んで下げ、身に着け護身を願ったのである。
台北の謝老人の漢玉は、そんな珮玉であろう。
古風な珮玉は、西洋風俗の時代になって、やや忘れられそうな代物である。人びとは玉の神秘性よりも、その装飾性に今では心ひかれている。だから中国人社会には、多量のジェイド製の指輪、腕輪、首飾りがあふれている。
皆、それをアクセサリーと考えているわけだが、ほんの少しは神秘の力も信じたい。そう思っているに違いない。
ジェイド即ち緑色の翡翠は、身につけていると体温によって、少しづつ色が変わるともいわれている。
そういえば、我が指輪も少しその色に深さを増してきたようにも思える。今度の勾玉はどんな色になってくれるのだろうか。それを楽しみに、毎日、目覚めると共にそれを身に着けるのだ。
1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
70年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。