翡翠の価値の基準はダイヤモンドのように明確なものではないが、透明度の高さや色の鮮やかさにより決められる。
現代人がダイアモンドの輝きに魅せられるのは、その希少価値に心を満たされるからかもしれない。
翡翠は願い事を念じる人々にとって、格好の対象となり、今も愛し続けられる宝物だといえるだろう。
松山猛・著『せらみか』より
(1993年、風塵社刊)
中国の人びとは、昔から、こうして石に美を見つけてきたが、使用した石は、ただジェイド系の硬玉にとどまらぬ。水晶、瑪瑙、紫金色、琥珀、ルビー、松花石などをその国に集め、精密な細工をして、別の生命を吹き込んだのである。
中国文化が花開いた、その数千年の昔には、都の近くに玉や宝石は産出せず、材料のほとんどは、遠い辺境からもたらされた。
中国人にとっての遠さの代名詞、崑崙(こんろん)山に産するといわれる。あれだけ高い山を造った造山運動には、いかばかりのエネルギーが必要だったのだろうか、でなくては、あんなに硬い石も生まれまい。
それにしても、どうしてあのように硬い材質の玉を、加工する技術を、古代の人は持ち得たのだろう。故宮博物院には、玉加工についての展示もあり、そこでさまざまな道具が用いられていたことを図解されると、なんとなく分かった気がするのだが、本当のところが理解できぬ。
特に乾隆帝が愛玩したという、玉碗やら、玉で作った白菜の細工物を見ると、人間がやりとげてしまう、とほうもない術に感心する他はない。
この玉碗は天山の彼方からもたらされた物だそうで、ということは中央アジアでは古くから硬玉を、いかようにも細工する技術があったわけだ。
故宮のヒンドスタン玉器特別展示室には、毎回、訪れる度に足を運ぶが、とくに乾隆帝の詩文が彫られた「青灰玉碗(せいかいぎょくわん)」の見事なシェイプに、いつも見とれてしまうのだ。
他にも双耳碗やら蓮弁の大盤、縄耳碗、金線や宝石を埋め込んだ物など、こりにこった玉器があるが、最も単純な前述の腕には、筆舌に尽くし難い優美さがある。
ちょっと高めの高台部、外に広がり気味のシェイプは、清代の磁器に写され、ミルクティーを飲む「奶子碗(ないこわん)」として、広く世の人に愛されたかたちでもある。
材質がネフライト(=角閃玉)であるこの碗は、清が西方の回族と蒙古族の闘いを平定し、蒙古系に圧迫されていた回族を解放した頃、回族から清の朝廷に貢ぎ物とされた物のひとつであるという。
余談になるが、あの歴史的な女性、香妃もこの時献上された女性であるらしい。
六本木にその妃の名を冠した料理屋が昔からあり(編注:現在は閉店している)、店には当然ながら、絶世の美女であったとされる、肖像画がある。
しかしどうもおかしい。その女性は、あまりにも漢族的な美貌であって、香妃が生まれたとされる、西域に近い国の表情ではないのだ。
その疑問が晴れたのは、郎世寧(ろうせいねい)の描いた、リアルな香妃像によってであった。このイタリアから渡来したカトリック画僧は、花鳥や風景、また皇帝の愛玩した犬、あるいは名馬などを、その西洋画の技法で、美しく活写して、清の時代の風俗や風景の一端を、今日の我々に、手にとるように知らせてくれる。
彼は皇帝のために、中国画材を用いて、中国画風の絵を描いたが、やはり彼が学んだ絵画の技法は西洋のそれであって、遠近法にすぐれ、ものごとをリアルにとらえる眼をもっている。ゆえに人物画にも、いくら画材が中国的であっても、西洋画のリアリズム技法が感じとれる。
その肖像によると、香妃は、芯の強そうな表情の持ち主で、意志のはっきりした眼と、偏平だが筋の通った鼻、くっきりとまとまった、やや厚めの唇をしていたようだ。