松山猛の台湾発見「石に夢を見つけた人びと」

2018.07.24
1ページ目で紹介した髪飾りを売る骨董品屋で松山氏が同じときに撮影した写真。中国の伝説で登場する幻獣を象った印鑑が並んでいた。右の印鑑には、幻獣の彫刻の背後にラベンダー翡翠を用いた円形の飾りがある。翡翠の色は代表的な緑の他に、白、青、紫、黒など様々にある。

 しかもその肖像の彼女は赤い衣装の上に、金属性の鎧をまとっているのだ。おそらくは皇帝と共に猟に遊んだ日の姿と言われているが、そこには巷伝されている悲劇のヒロインらしさはなく、むしろ皇の愛妃として、気ままに世を謳歌した人の、屈託のない表情が読みとれるのだ。
 香妃は生まれながらにしてその体から、芳香を発したといわれている。乾隆帝は、くだんの玉碗やら、絶世の美女を、いちどに手に入れた、実にラッキーな人だったのかも知れない。
 皇はその後、これら優美な玉器が、北インドの物だと知り、コレクションを始めるわけだが、その後ヒンドスタンからもたらされる玉碗や盤の多くは、先の青灰玉碗とは異なり、植物文などを一面に彫った物が多く、また全体に薄造りである。今日の研究では、最初に朝貢された肉厚の青灰玉碗は、当時から見ても相当年代物の、骨董であったらしい。
 話は前後するが、漢の時代は玉の彫刻に精美な物が多く作られた時代である。玉製のさまざまな動物が作られているが、それ以前の時代の物に比べて、立体感にすぐれている。
 殷、周の時代に作られた玉器上の動物は、装飾品という用途からか、むしろ平板な板状の石を文様的にカットし、そのカットの形状が竜や鳳凰のかたちになっている物が多い。
 しかし唐三彩の動物で明らかであるように、漢代の人びとの、立体的な動物像は、玉の世界をも変化せしめたのであった。
 馬、虎、熊、豹など、それぞれに生命力あふれる動物たちが、見事なカーブで造形されている。玉の素材の原形を、うまく利用したものだろうか、うずくまり丸くなっている虎がいる。つるんと愛らしい顔をした熊がいる。
 また、辟邪(へきじゃ)といって、魔除けの能力にすぐれた、虎の顔に翼をもつ空想の動物が、いまにも飛びかからんとしている。なかでも愛すべきは、玉製の鳩だ。何に用いたものだろうか、翼を広げている姿の可愛い物がある。同じ鳩でも杖の先端に取付けられたものもまたある。
 昔は貴人が亡くなると、体の穴に玉をつめて埋めたというが、出土品の中の玉豚を見ると、死して黄泉の国に行っても、食に困らぬようにとの、配慮だったらしい。玉豚は、玉の棒状の物に、ちょっと造形した物を見たことがあるが、なんとなく箸置きみたいでおかしかった。また子供の頃、鉛筆を削って、インディアンのトーテムポール風の飾りにしたのを思い出させた。
 石は面白い。河原の石を磨いて床の間に飾る趣味の持ち合わせはないが、玉の妖しい光沢には、ちょっと魅力がある。ましてやその削りにくい素材で、いろいろな物を作った連中には、シャッポをぬぐ他はない。
 さて最近、ヒマラヤ産の大理石を素材にした、腕時計が作られて話題になっている。
 崑崙(こんろん)の石は、時計のかたちとなり、ふたたび我々に微笑みかけているのかも知れない。そのロック・ウォッチを見た時、僕は古い中国の玉を使った時計はできぬものかと考えてしまった。

 今日では、レーザー光線によって、どんなに硬い物でも切断や加工が簡単にできるのだ。現に、ラピスラズリや、隕石をも文字盤に加工した時計というのもある。
 いつの日か、気にいった玉を1個、時計のかたちに加工してもらえる日があるやも知れぬ。今世紀はじめの大金持ちならば、パリへそれを持参して、カルティエの店に行き、こんなデザインで時計を作ってくれと言うことも可能だった。ただし置時計ではあるけれども。
 目下のところ、大金持ちでもなく、近未来にもそうなる可能性は、いささか低すぎるけれども、ポケット・ウォッチの鎖の飾りに、ジェイドの珮玉くらいはつけられる。
 この次に台北か香港に行く時は、ぜひ玉の市を歩いて、好みの物を探してみたい。あまり石の神秘などと言うと、まやかしい感じになるからよしにするが、迷信であり、気やすめにすぎぬと思いながらも、身に着けて楽しめるからよいではないかとも思うのだ。
 そのうち、良い石の方から、どうだ、私を身につけてみないか、と呼びかけてくるかもしれぬ。
 石の類に夢中になったのは、実はもうすぐ8歳になる息子の方が先だった。化石や石の標本に、熱心に見入る子供の影響を受けてか、遂にアメリカで出版されているジエムオロジーの雑誌まで手に入れることになった。
 この似た者親子の、蒐集に対する奇妙な熱意を、ため息まじりに見ている母親と娘がいるが、実は彼女らにも、宝とつく石は悪者ではないらしい。そのうちビルマかスリランカで、 宝探しがしたいねと、言いだすにちがいない。

松山猛プロフィール

1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
70年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。