松山猛の台湾発見「台湾古代の赤」

2018.08.06

画像提供:台湾観光局
台湾原住民族の中で最大の人口を誇る、アミ族の祭事「豊年祭」の様子。アミ族は台湾の東海岸一帯に居住し、豊年祭はその集落ごとに開催される。豊作を願うこの祭りは、春作と秋作の農閑期である夏半ばに毎年行われる。

 古代の人は赤に、生命力を支える血の力を見、経験的に防腐作用などがあることを知っていたらしい。だから健康なうちも、赤の力を身につけて、からだを護ろうとしていた。それが伝統の衣装によく残されているのだろう。
 男たちはたくましい上半身を裸に、腰ミノ風の者やふんどし姿で踊りの輪に加わっている。上腕部の力こぶの出るあたりなどに、布製の腕輪をつけたり、こちらもめいっぱいのお洒落をしている。
 族長と思われる老人の、頭のかぶり物を見て驚いた。彼はムササビのかたちのままの帽子をかぶっていたのだった。
 長老たちのなかには、木の皮で作ったチャンチャンコの様な上衣をつけている人もいる。
 まるでおとぎ話の「浦島太郎」そっくりの姿ではないか。
「昔は暑い時期は裸みたいなものですよ。それでちょっと肌寒くなると、山に入って木の皮を上手にめくって、こんなのを作るんだよ」と、その長老は、コルクみたいな木の皮のチャンチャンコをつまんだ。彼もまた上手な日本語の使い手であった。
 アミ族をはじめ、台湾の少数民族の人々は、歌や踊りが上手だと言われる。僕は見に行ったことがないが、各地の観光化された場所で、ショーのようなものを見せて、生活している人も多いらしい。
 しかし今日「豊年祭」で彼らが踊り、歌うのは、観光客のためではなく、彼ら自身と、その先祖のためなのだ。
 女も男も健康美にあふれた大集団が、実りの季節の収穫物を手に手に輪舞する只中にいると、不思議な気分になる。ここもひとつの楽園なのだ。日常をほんの少し飛びこえたところにあった楽園。哀しいかなその楽園の中のストレンジャーである僕は、数日を待たず現実のあわただしさに、帰って行かなくてはならない。
 実は多くのアミ族の人々もそうなのだった。この地元で漁をしたり、農業をしている人もけっこういるが、台北や花連などの都市で、伝統とはかけ離れた、現代の暮らしを生きる人も多いからだ。少数民族の暮らしにも、現代化は押し寄せている。普段着の彼らはTシャツやポロシャツにズボン姿で、オートバイや車にも乗る。だからこそ年に一度の民族の祭を大切にし、海を渡って来た先祖たちが築いた、この豊かな産物に恵まれた宝の島での歴史を祝うのだろう。
 その伝統衣装をよく見ると、どこかタイやビルマの少数民族に通じる、色、かたち、コーディネートがある。南から島伝いに、最初に日本にやって来た人々も、同じようなコスチュームを身に着けていたのだろうか。
 彼らは更紗が生まれるより、はるか昔に移動をした人々だ。パッチワーク式の文様はあっても、更紗のような地紋を知らずに来たのかもしれない。そしてこの宝の島で、長いあいだ平和に暮らした。外圧がかかったのは、大陸からの移入者や植民地拠点を求めたオランダ、のちの日本人によってであった。
 もともと東海岸にいたアミ族は幸運なほうで、西海岸の平野にいた人々は、山へ追いやられたと言ってよいだろう。
 だからこそ彼らは純粋なかたちで、固有のライフスタイル、文化を残すことができたのではないだろうか。日本のように早くから、混ざり合うことによって、文化を形成してしまえば、これほど純粋なかたちで、先人の営みは伝えられなかっただろうから。
 バティックの島バリで見たのと同質の、ある懐かしさを秘めた風景と人々。はるか昔の日本の風景はこうだったかと思わせられる自然の風景の中での暮らしを、僕はまた見つけたのだった。

松山猛プロフィール

1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
70年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。