松山猛の台湾発見「茶芸教室の熱気」

2018.09.15

台湾茶の名店として知られる「和昌茶荘」にて。店の主人より説明を聞きながら、じっくりとさまざまな茶を味わう。写真の人物は、2代目の張氏。

 僕は故宮博物院4階にある「三希堂」で、たっぷりと中国の至宝を見た後に、緑なす山山を見、鳥籠のカナリアの歌声を聞きながら自分で「天霧茶」や「梅山烏龍茶」を泡茶し、ぼんやりと時を過ごすのが好きだ。
 それにしても楽しい旅となった。特に印象深かったのは、名間郷の張さんという茶問屋さんに泊めてもらった日のことだ。名間も台地になっていて、おそらく標高は600mはあるだろう。受天宮という道教の名刹がある門前町で、100軒以上の茶問屋が軒を並べているのは壮観だった。東京よりはるかに高い気温の中、張家の近くの数多くの製茶所では、人々がいそがしく働いていた。健康な笑顔と茶の仕上がりを見つめる真剣な目。作業の音は深夜まで続き、うとうとと眠る僕の耳に、明け方近くになっても聞こえてきた。
 また高山茶のふるさと、霧舎、廬山を訪ねて、天仁茗茶の経営する「天廬大飯店」に泊まった夜も印象的であった。廬山は温泉地であり、雨期で増水した峡谷の上の、あぶなっかしい吊り橋を渡ってホテルに向かう。轟々と音をたてる峡谷はまるで伝説の水龍のようで、乳白の雲霧に包まれた山々には趣があった。ちょうど雨期に当たる季節で行動は制約されたが、また別の時期にゆっくりと訪れたいと考えた。駆け足の旅であったが、茶を作る現場をこうして見聞し、天仁茗茶貿易部の劉さんの車で、僕らは台北に再び戻ったのだった。
 日本でも烏龍茶は何度目かのブームを迎えている。しかし僕の目には、まだ底の低いブームに見える。健康飲料としての側面からの評価が高く、その真価を見極めてくれる人が少ないようなのだ。茶はサービスの品としてしか見られぬ日本では、手間のかかる泡茶が定着するには、もう少し時間が必要かもしれぬ。しかし客をもてなすに当たり、また自分自身の密度濃い余裕の時を求めるにも、泡茶は良き手だてとなるはずだ。台北でいろいろなオフィスにお邪魔することが多かったが、茶をもって接待してもらうことが多い。疲れをやすめ、心を静め、会話に余裕を与えてくれる、台湾の茶は、暮らしの中に密着しているのである。
 台北郊外の寺院などに行くと、お年寄りたちが庭先の卓の上で、古風な茶を楽しんでいる。老人茶を喫し、将棋を打ち、あるいは俄眉鳥を入れた籠を吊るしてその鳴き声に聞きほれる。時を忘れた優雅な暮らしがそこにはある。
 日本の茶も悪くはないが、泡茶にはもっと庶民的な歓びがあり、合理性と趣味性が共存しているというのが、目下の感想なのだ。

松山猛プロフィール

1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
70年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。