あの日のおじさんの話は、今日の台湾からは想像もつかない。1980年頃は、まだ台湾は戒厳令下の社会であり、政権党の国民党は、中国大陸の共産党政権と、今よりはるかな距離を置いていたのだから。
それでも台湾は変化しはじめていた。そのきっかけとなったニクソン政権のアメリカと田中政権時代の日本が、大陸中国と国交を締結し、台湾社会を国際社会の孤児とした1970年代をすでに経たからだ。
それによって、台湾は政治的だけではなく、経済的にも大きな痛手をこうむった。たとえば農業では、それまで安定していた、絹の原材料の生糸の輸出が激減してしまったらしい。日本は日中国交の手土産に、かなりの農産物の輸入先を大陸中国に振り替えしてしまったのである。
台湾では、多くの農家が、作物を転換する時代を迎えた。南投県では、かなり古く清代の末から茶の栽培はおこなわれていたが、それよりも主な産物は筍と竹であった。山がちの余面が多く、他の農産品に適した土地ではなかったので、南投の人々は斜面地を竹林として拓き、生食用筍、あるいは干筍などの加工品として生産し、成長した竹から、竹の割箸、焼鳥などの串、竹刀、食器、家具などを作って生計を立ててきた。
竹山という地名もあるくらいで、南投県は竹の名産地、台中から竹山に向う国道沿いには、 竹筒を器にして炊きあげた竹筒飯と言う名物がある。どこか日本の昔の風景にも通じる、台湾の地方都市と農村の風景に、僕はいつも、自分が通り過ぎた時代の、なつかしさ楽しさを重ね合わせて旅をしている。
もう少し深い山地に入れば、その昔は、樟脳がたくさん採れた高山地となり、また戦前はマラリアの薬の原料になる、キニーネをとる熱帯樹、規那(キナ)の木も、大量に植林された土地だ。台湾の年配の人たちは、そんな話をさらりとした感じで口にする。
それは歴史と権力に、ほんろうされ続けてきた人たちの、明るい諦観から来る、野太さなのだろうか。
時代の変化に乗り遅れることは、台湾では死活に関わる。農村の人たちもだから、機を見るに敏で、台湾経済が奇跡のように発展し、西部台湾海峡側の大都市間が、高速公路で結ばれた頃、茶の国内消費も、第一のピークを迎えた。南投の各地で、竹林が茶畑に変えられた。海抜700mあたりの、耕作可能な土地の多くが、金の卵のように現金化しうる烏龍茶畑に変わっていった。
そのきっかけを作ったのが、若くして農会理事長となった林光演氏だ。山がちの寒村であった鹿谷から、多くの人々の期待を受けて大学に進学した彼は、卒業後ただちに村へ帰り、村おこしを始める。それが歴史の長い凍頂山の烏龍茶のプロモーションと、竹林から茶畑への転作。そして凍頂烏龍を世に広めるためのコンテスト開催だったのだ。
それまでは都市の茶問屋と、茶農の直接取引だけであったため、消費者個々にまで凍頂の名前は認識されずにいた。他の産地との差別化のためにも、凍頂の名を市場で印象づけねばならない。
こうして始まった公式の展售会(コンテスト)の、科学的な官能審査の様子は、それまでのあいまいな等級だけで売られていた茶の世界を一変させた。
もちろん昔から、輸出品としての台湾の茶を、農林庁が検査するシステムはあった。林さんはそれを、国内消費向けの、凍頂茶に導入して、消費者に等級の目安を作ったのだ。茶農たちも、農会のお墨付きが得られるから、どんどんと技術的に進歩して、数年後に凍頂烏龍の名は、全台湾に、そして日本に知れ渡ることとなる。
以前は炭培といって、耐火レンガのかまどに炭火をおこし、鉄鍋を加熱して、手作業で妙っていたが、それでは生産量があまりに少なく、機械化が進んだ。それでも多くの工程には、熟練した手作業が必要だ。特にコンテストに出品したり、高額で取引される茶には、細心の注意がはらわれる。
まず茶畑で摘まれる時から茶の運命は決まる。高級茶は今でも完全な手摘みだ。一心二葉と言って、生育した2枚の茶葉と先端の新芽が茎ごと同時に摘まれねばならない。でないと日光に当てて発酵をうながすプロセスで、葉の中の水分が均等に拡がらない。水分は葉のふちの部分に至り、そこから発酵が進むので、上質の烏龍茶葉は縁葉紅鑲辺という状態となる。
これは茶の質を見極める時に有効な手だてで、丸く縮まった濃緑色の茶葉のふちに、暗褐色の部分が5対1くらいの割合で見受けられる茶は絶対的に旨い。逆に全体的に褐色がかった茶葉はあまり清香が期待できないのである。冬茶には芽の部分の白っぽさが多く見られ、これはこれで美味である。いわゆる銀針白毫である。
手摘みそのものは重労働で、茶畑で働く人々の指先の多くは変形し、皮が厚くなり茶の成分に染まる。しかし機械摘みでは、前述したように良質の茶が作られないので、人々は作業賃も良いから、手摘みを続けるのだ。
高級茶はまた、急斜面に畑を持ったので、作業的にも機械摘みはむずかしいらしい。
摘んだ茶は、それから24時間以内に製茶しなくてはならない。茶葉は枝を離れたとたんにどんどん変化するからだ。
だから摘取りの日は、よほど天候に留意せねばならない。雨が降ったら、日光に当てて発酵させることができないからである。
台中のような都市部では、雨は空気を洗う効果もあるが、茶畑のある山地ではうらみの雨ともなりかねない。
「雨は一気に南投の方へ行ったんですかねえ」と僕。
「どうだろう、降るだけ降って台中の先では消えたかも知れないね。それにしてもどうして山が気にかかったの」おじさんはにこやかに聞く。
「いや、今日は茶摘みは無理かなと」
「あんたも本物の烏龍茶好きになったもんだ。さあさ、それでは春茶のおいしいのを、もう1杯飲みましょう」
西北雨は台湾人のようだ。激しさと、優しさを兼ね備えた雨だなと思いながら、僕は熱い茶の清らかな香気で自分の心の内側をまず洗った。
1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
70年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。