茶作りの名人は、それぞれの茶樹の特性を知り尽くし、土壌も改良して茶作りに備えている人だ。去年(1994年)の春茶の時期に鹿谷の林昭さんは、農会(農協)の他にふたつの品評会、合計3つのグランプリを取った。これは台湾の品評会史上でもはじめての快挙で、新聞も『新茶の3冠王』と大見出しで報じたものだ。彼のグランプリに輝く特級茶は、100gあたり3万円の高値を呼び、台湾式の1斤(600g)で18万円となった。
幸運なことに、僕はこの茶を一服だけいただくことができた。
一昨年はまた、雑誌の取材で出かけた台中の山地、日月潭近くの峠道で、1軒の茶商を見つけて車を停めた。壁に『梨山茶上市』とあるのを見つけたからだ。梨山は、西海岸中部の台中と、東海岸の花蓮をつなぐ、東西横貫公路。つまり台湾高地のメインルートの中でも、最も標高の高い地方である。
梨山茶はだから香気に優れた茶で、大都市では驚くべき高価さで取引される品だ。店の人に泡茶してもらって飲むと、これは相当にレベルの高い茶であったので、1斤分けてもらうことにした。2000元(8000円ほど)であった。
また台南市の老舗茶商『金徳春』では、玉山茶を見つけて半斤入手。玉山とは台湾最高峰の山で、戦前戦中まで新高山と呼ばれた海抜3950mの山。もちろん我が富士山よりも少し高い。
この店は『金徳春老茶舗』というくらいで歴史が古く、創業は1868年のことだそうだ。白毫烏龍茶の白毛猴が1万2400元であった。店のたたずまいも清朝末の雰囲気で面白かったし、品揃えも豊富で、なるほど食都と呼ばれる台南にふさわしい茶舗であった。またこの家の息子さんは、近頃台湾でも人気の雲南省の団茶、たとえば普耳茶の良品を探しに大陸へ渡り、なんと雲南の娘さんを見初めて結婚したのだという。台湾と雲南の茶のネットワークと呼ぶべきか、ほほえましい人間の関係が、茶によって拡がっているのである。
もう1斤の高山茶を中部の山地、台湾紹興酒製造で有名な埔里の町で手に入れた。
前に述べた梨山、玉山茶は、茶の好きな友人に分けたり、自分で飲みきってしまったが、この埔里で見つけた一行はまだ開封していない。もちろん店では見本を飲んだ。これも標高1000mを軽くこえた地域の茶だ。この店は専業の茶舗ではなく、山地で採れる乾物や蜂蜜の店であり、茶葉はおそらく親類や縁者が作ったものを少量扱っているにすぎないが、台湾の場合、時としてこういう意外な場所で良質の茶が手に入るから見逃せないのだ。
たった今、この原稿を書くのを中断して、この名の無い茶をいれてみた。その結果は良かった。これも1斤当たり2000元したから、良い茶じゃないと絶望してしまうがね。
義父が元気だったその晩年は、毎年のように台湾へ帰省して、その帰りに5斤くらいの茶を土産に持ち帰ってくれたから、普段飲む烏龍茶に困ることがなかった。なかでも義父の郷里に近い嘉義県梅山の茶や、阿里山茶も相当にレベルが高い。
南投県鹿谷の凍頂烏龍茶や、名間の松拍長春茶の成功に刺激されて、茶農家が、しだいに山間部の、かなり奥深くまでに畑を拡げていく。より中央山脈の深部に近い海抜の高い地域、たとえば霧社、盧山へ、そして阿里山、梅山へと。
今から5年くらい前に、梅山の茶が最上のレべルに達したのは、ようやくそれ以前に植えられた茶樹が、良い葉をつけるようになったからだと思う。
そして茶葉選びのひとつのこつだが、春茶でも、高山のものは茶葉が小さいから、揉捻されて丸い粒状になった形が、標高の低い畑のものに比べて小さい。さらにその香気が清らかで軽いこと。見分けるには習熟が必要だが、ワインほど複雑ではなく、天然のフローラルさがあり、しかも重くない香りの葉ならけっこうだろう。
高山の茶は、厳しい自然条件のもとで成育されるから、耐えに耐えぬいて芽を出し、そして葉を広げる。それゆえ葉も小さく育つが、実はその小さな葉に、充分な清香と喉ごしの良い甘味をたくわえている。
春茶のはしりは“明前茶”と呼ばれ、二十四節気の清明節前に摘む茶、また“雨前茶”は、穀雨節の前に摘まれる茶など、採集時期による分類もある。いわゆる春茶は清明の、3月上旬から5月中旬の夏至頃の茶だ。
気候の良い台湾では、その後の二番茶である夏茶、三番茶の秋茶が採れ、さらに秋分後の冬茶もある。南投あたりでは春茶と共に、冬茶の品評会もあって、これも人気が高い。
台北の町は、台南や台中、彰化といった中、南部の町に比べて、遅れて発展した。しかし その発展のテンポは逆に、日本統治時代に加速し、今は首都圏(メガロポリス)を形成するに至ったが、なんと言っても当時は、淡水河に商船が横付けできたことが大きい。台北には、大稲程と呼ばれる地区がある。黄華駅や西門町に近い河畔の一画で、昔ここにはたくさんの茶商の建物が並び、おおいに繁盛したのだそうだ。
実は台湾でも、昨今はレトロブームであって、昔をしのぶ風潮もあり、今だに各地に残る清代、あるいは日本時代の近代遺蹟保存の動きもある。また古きを訪ねるといった企画の出版も多く「台北市古街之旅」といった本が売れている。
これは台北市政叢書の“認識台北系列之一”と副題されているから、いろいろなシリーズ本としてこれからも出るのだろう。紙質も良く4色オフセット刷りで、エディトリアルも洒落たソフトカバー本で、10年ほど前には決して見られなかった作りの書籍だ。台湾も進歩したなあと実感した。
さて、この古街之旅の、貴徳街、甘谷街のページには、昔の大稲程のモノクローム写真が数葉登場する。中国服を着て髪を結いあげた娘さんたちが、茶葉がはいった直径1.5mくらいの穴に向かって、茶葉を選別しているらしい風景だ。
その本によれば、清の末期道光の時代に、台湾北部の鯧魚坑(現在の瑞芳鎭)に、福建省の何という人が、茶樹を移植して、福建省福州へ生産した葉を運び、また同治4年(1865年)には、貿易商杜氏が「徳記洋行」という会社を作って、福建安渓の茶の苗を移植、4年後には英国領事館の手助けを得て、21万3000余斤というから12万7800トンをアメリカ向けに輸出したようだ。この時代から成功した茶を数多世に出し、彼らは次々と洋館をこの地域に建て、独特の都市景観を出現せしめた。
最盛期には毎日1万人以上の人が、この地域で輸出茶産業に従事したものだという。町には季節ともなれば、茶の香が漂い続けていたそうだ。北京語でウーロンツアと呼ばれる烏龍茶は、台湾語ではオーリヨンテエと呼ぶと最近知ることができた。
1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
70年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。