松山猛・著『ちゃあい』より
(1995年、風塵社刊)
闘茶とは何か
闘茶とは、持ち寄った茶をいれ、その優劣を競い合った、中国の古い遊びである。字面はおそろしげであるが、文化の華とでも言うべき、この洗練された飲物を手もとに、さまざまな話をする。いわゆる茶話会の原形といえるものだろう。はるか唐の時代にも人は、茶を座右の友として、語らい、時には論議をして真理を見つめた。宋でも元でも、ますます闘茶は盛んになって、その気風は今日の台湾にも受け継がれている。今、僕のまわりにいる、この人たちは、茶によって経済を豊かにしただけでなく、良き友人関係を作りあげ、たびたび出会っては、茶や人生について話をはずませている。正直言って、うらやむべき、大人の男たちの世界がそこにはあった。
「林総幹事は、鹿谷の旧家の出で、昔は中学校の先生だったんですよ」
「旧家の出って言うと、あの福建から茶の苗を持ち帰ってきた、林鳳池(リンホウチ)の末裔ですか」
「鹿谷の故事をよく知ってますね。たしかそのはずですよ」と張さん。
清朝の頃、鹿谷出身の林鳳池は、むずかしい科挙に合格して、役人となって大陸に渡った。中国では昔から、同郷の秀才を、近くの人々皆が援助してあげる美風があり、林鳳池は旅費などを工面してもらった、林三顕氏へのお礼として、後に武夷山の「軟枝烏龍種」の苗を36本持ち帰った。そして今は名高き凍頂山に植え、次々に株分けしたのが、今日鹿谷郷を、経済的にも豊かな茶所にさせるきっかけとなったのだった。
鹿谷にも苦難の時代があった。しかし林光演さんが農会総幹事となってからは、茶業の改良が指導され、日に日に鹿谷産凍頂烏龍茶への評価は高まり、地方は発展しだした。
それはちょうど、台湾経済の上昇と軌を同一にしていたのではなかったろうか。人々のふところに余裕ができ、伝統的な茶芸へ、人々を駆りたてたのだった。もともと自給自足できる麗しの島が、更に住み良く楽しくなった。そのことが、当地の人から「台湾婚さん」と呼ばれる、僕にもうれしい。
良い茶が求められはじめるや、はるかな昔からおこなわれていた、闘茶の心に火をつけた。たしか張さんは『お茶けんか』という言い方で、その気分をあらわしていた。彼と杜さんは、よく連れだって、標高の高い畑に出かけては、今日が摘みごろ製茶ごろとねらいをつけ、銘茶探しをやるのだという。
なにしろ杜さんは、いつもライオンズ・クラブのバックルのついたベルトに、高度計と温湿計がセットされたメーターを付けて歩き、ポケットに自分流の標準茶をひと袋しのばせているくらいなのだ。
「いつだったかね、あのすごかった茶は」
「あれは2年前だ。4月17日だったか。玉山に近い山の農家だった。桐の板が張られた萎凋(いちょう)室に、張さんと泊らせてもらったんだよ」
この杜さんはよく「清らかな香りが大切なんだよ松山さん」とくりかえし言う。
それにしても、毎日何度となく、農家や農会で茶を喫し、その度に深い知識と、感覚のトレーニングを受けることができたのは、またとない体験となった。よく夢のようなと言うけれど、まさにその1週間が、夢のように過ぎようとしている。