松山猛の台湾発見「茶論(サロン)」

2018.12.08
『ちゃあい』刊行にあたり松山氏が描いたイラスト。
茶聖、と呼ばれた陸羽という人が『茶は南方の嘉木』と言ったように、古来人々は茶の効能に気付いており、生活の中に取り入れてきた。最初はさまざまな雑穀や生姜などと混ぜていただく食べる茶として、またその後は茶葉を粉砕した抹茶として、そしてやがて我々になじみ深い葉茶のスタイルを取るようになり、我々の日々の生活を潤す飲み物となってくれたのである。

松山猛・著『ちゃあい』より
(1995年、風塵社刊)


茶論(サロン)

 茶という飲み物のもたらしてくれる、安らぎには、どこか特別なものがある。 その一服の芳香には、心を落ち着かせたり、ある種の爽快感が秘められており、人と人との間に用いれば、親密感を与えて会話を楽しく弾ませてくれる、不思議な飲み物なのである。
 最近になって、緑茶の成分が健康に良いということが、かなり科学的にも証明され、茶の効用がさらに注目されているが、古代の人ははるか昔から、その薬効を直感的に感じ取り、その葉をチューインガムのようにかんだり、調理して食べたり、製茶して飲んだりしてきたのだった。
 唐時代の茶聖と呼ばれる陸羽が語ったように「茶は南方の嘉木」、つまりそれを飲む者に、しあわせを与える南方産の素晴らしい飲み物の王者なのだと思う。
 研究者たちのおおかたの結論として、茶の原種は中国の南方、雲南省あたりの高地だとされている。ビルマやラオス、そしてインドにも近い少数民族たちのふる里で、その原種に近い茶の樹は、大人が何人もかかって抱きかかえなくてはならない巨木だそうだ。
 西双版納(シサンパンナ)地方には、そんな茶樹が多いらしい。もっとも今日、茶葉を摘む茶畑の木は、みな人間の腰や胸あたりまでの大きさに育てられたものが大半である。
 茶は椿科の常緑樹で、白い可愛らしい花をつける。その実は椿のそれにそっくりなのだ。茶の木を低く作るのは、ヨーロッパ人がワインをつくるために葡萄の木を低くしたのと同じで、まったく人間の都合のためらしい。
 清朝の時代に焼成された「十二花神紋杯」という、12カ月絵替わりの器の、10月の杯にも、 その野生とみられる茶の古木の絵が描かれている。
 10月は茶の白い花が開花するころ、大ぶりの茶の木に白い花が咲きこぼれ、その下の草む らに白いうさぎがいる。
 緑茶も紅茶も、そして烏龍茶も、もとはこの同じ木から発したもので、単に製法と喫茶法のちがいだけなのだ。
 古来その製茶法が完成されて以来、飲むビタミンとして、珍重された茶葉は、やがて中国だけの習慣から、さまざまな経路をたどって世界にひろまっていく。
 これから、そんな茶と喫茶にまつわる話を、ひとつひとつ探して、そのおもしろい世界をたどって歩きたいと思う。なにげなく飲んでいて、すっかり日本的なものに思えるお茶だが、実は歴史の中をはるばる旅して、我々にもたらされた味覚だったことを忘れてはいけない。
 世界の歴史すら変える力を持っていた茶を、もう一度見直してもらえるとうれしいと思う。