松山猛の台湾発見/梅山茶と文山包種茶

2019.01.19

文山包種茶

松山氏が撮影した、坪林の街角。

 台北市の南東にある坪林(ピンリン)という山間の地へ茶作りを見に出かけた。ここはいわゆる文山包種茶の産地で、わりと近くには、鉄観音茶で有名な木柵(ムーツオ)の村があったりと、台湾北部における、茶どころの一画なのである。
 台北市の南には、永和市、中和市などの衛星都市があって、そのひとつが新店渓(シンディンチー)という渓谷をこえた新店市。そこをすぎると、台湾の背骨「中央山脈」につながる山地の始まりである。
 7折れ8折れの道を、車があえぎながら登っていく。距離にすれば台北から、30余kmなのに、坪林への道ははるか遠く思えるのだった。
 眼下の雲の切れ目から見えるのは、翡翠水庫というダムか。そして千尋の谷こそ北勢渓(ペイシーチー)であろう。そんな深い山地に、急ににぎやかな町並みがあらわれると、そこが坪林だった。
 街道沿いの家々のほとんどが、本場文山包種茶を商いとしている。
「文山包種茶は昔から、輸出を専門としていた茶だったので、台湾国内では知られることがなかったのです」
 文山茶の品評会で何度も特等賞を取り、その品質向上に、長年心血を注いできた茶農家の葉成家さんの話によると、その主な輸出先は南ベトナムだったのだそうだ。だがベトナム全土が戦場と化し、輸出は不可能となってしまい、当時文山の茶農家は、深刻な経済状態におち入ってしまったとか。
 しかし折からの茶ブームが台湾にはじまって、この平和な山里の名産は、国内消費に活路を見出そうとしたという。
 それだけに、凍頂や梅山などの烏龍茶に対するライバル意識は強い。どの茶もレベルが高ければ、僕としては満足なわけだが、未知の部分が多いだけ包種茶は損をしていると思う。
「戦前は台湾でもよく知られていた茶だったよ」と、僕のおじさんも言う。きっとその香り高く清らかな味は、日本人の味覚にも合うはずだ。
 台湾の新聞の見出しを見ていたら、このごろは茶の消費が伸び続け、茶農家も増えているわけだが、輸出量も増えた。ただし、缶入り飲料の普及もあってか、茶葉全体としては、輸入もまた増加していて、この国は遠からず、茶の輸出国から輸入国になってしまうそうだ。
 台湾でも若者の味覚に変化があらわれはじめている。彼の地でも缶入りや紙パック式の茶が増えているし、加糖した茶もある。昔の人々は渋い茶の味に人生を見たが、近ごろは甘味にひかれる世代がふえた。時代と食の在り方に関係があるようなのだ。

松山猛プロフィール

1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
70年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。