SIHH2019個人的大トピック Vol.2 未来を提示した“THE LAB”と“THE LIVE”

ウォッチジャーナリスト渋谷康人の 役に立つ!? 時計業界雑談通信

SIHH2019個人的大トピック Vol.2 未来を提示した“THE LAB”と“THE LIVE”

渋谷ヤスヒト:取材・文・写真
Text & Photographs by Yasuhito Shibuya

黒と白に黒のベレー帽というガーリーなフレンチカジュアルスタイルが、SIHH2019のアテンダントのユニフォーム。ここにもフェアのコンセプトが反映されていた。

 世界的な政局不安、景気後退の懸念の中で開催され、一部のブランドを除けば「無難な新作」が目立ったSIHH2019。とはいえ、個人的にはふたつの大トピックがあった。そのひとつが、前回書いた「CODE 11.59 バイ オーデマ ピゲ」だ。

 今回は、もうひとつの「個人的な大トピック」をご紹介したい。それが“THE LAB”というキーワードの下に、会場の中心部に設けられた“SIHH LAB”と名付けられた展示だった。

©SIHH2019
“SIHH LAB”の場所は会場の中央、昨年までヴァン クリーフ&アーペルがあった場所。ブース前では日本でおなじみのクラウドAIロボットのペッパー君が呼び込み役を務めた。

 時間切れで展示のすべてをチェック、体験することはできなかった。だが、「明日のウォッチメイキングのインキュベーター(孵卵器、保育器)」とプレスリリースが紹介したこの展示は興味深く充実した内容だった。
 出展社はフェア参加ブランドやFHH(高級時計財団)、ブランドのサプライヤー企業など。そしてブースには“SIHH LAB”と書かれた白衣を着たスタッフたちが常駐。その中には明らかにブランドやサプライヤーの社員と思われる大人たちもいたが、目立ったのは20歳前後と思われる若者たち。
 彼らは世界的にも名高い名門大学、スイス連邦工科大学ローザンヌ校(通称EPFL、世界の大学総合ランキング、総合&工学の両部門で12位)や、デジタルマーケティングやコミュニケーションを専門的に学ぶジュネーブのビジネススクールCERA Genevaの生徒たち。きっと彼らのうち何人かはごく近い将来、時計ブランドで重要な役割を果たすことになるだろう。


FHH(高級時計財団)が開発した(?)デジタルカタログシステムをプレゼンテーションしてくれたジュネーブのビジネススクールCERA Genevaの学生。ブランドの垣根を越えて同種のモデルの検索、比較、クリッピングができる。

 具体的な展示のテーマは、ヴァーチャルリアリティ(VR)や人工知能(AI)、デジタルアーカイブ、ジェスチャー認識、コネクテッド機能、高強度素材、カスタマイゼーション、進化した職人技など。実用化間近のものから将来を見据えた大掛かりなものまで、どれもスイスの高級時計ブランドが製品のプロモーションや顧客とのコミュニケーション、サービスなどを今後どのようにするかがうかがえるものだった。
 例えば、カルティエは“LIVE DIAG”という簡単に機械式腕時計の状態が診断できるシステムをデモンストレーション。ヴァシュロン・コンスタンタンは、過去に製造した傑作時計の画像や関連する文書等をデジタルアーカイブ化し、ディスプレイにタッチして簡単に検索・表示できるシステムを公開していた。またパネライはケースの新素材がどんな素材から作られたものかをサプライヤースタッフの解説付きで展示。


©SIHH2019
カルティエの“LIVE DIAG”。クルマの整備でおなじみの故障診断システムのようなもの。丸く黒いデバイスにはマイクロフォンが内蔵されていて、その上に腕時計をセットすると歩度をその場で測定分析して表示する。アプリケーションをインストールしたパソコンやタブレットと接続して使う。

 さらに、マス・カスタマイゼーションによる服作りの最先端企業である島精機製作所のイタリア法人がホールガーメント編み機のデモ展示を行っていたのも驚きだった。ごく近い将来、好みのストラップをその場で作ってくれるサービスも出現するかもしれない。


©SIHH2019
ファッションの世界では注目の的だが時計界ではほとんど知名度のない島精機製作所。そのホールガーメントニット織機のデモンストレーションも。この編み機から作られたシームレスな手袋もプレゼントされた。

 また、“THE LAB”に加えて、プレスリリースで掲げられたもうひとつのキーワード“THE LIVE”に基づくフェアのデジタルメディア発信戦略も、もっと高く評価されるべきだと思う。
 これは昨年からの、来場者自身によるインスタグラムなどのソーシャルメディアでの発信に加えて、会場の様子を随時SIHH事務局のTVクルーがVTRでライブ中継。また、入口近くに設けられたオーディトリアムでの30ものプレゼンテーション等を積極的にネットでライブ配信するなど、会場外の人々も体験できる「開かれたイベント」にする戦略を積極的に展開するもの。


エントランスゲートすぐの撮影コーナーも2018年よりも立体的でカラフルに進化した。

 その結果「#SIHH」で約38万件もソーシャルメディアへの投稿があり、世界中で約2600万人が見たと事務局は述べている。
 つまり、SIHHはかつての「業界関係者のための特権的でクローズドな場」から一転、リアルな参加者は極めて限定されるが、デジタルなライブ技術で世界に開かれたイベントを目指していることは確実だ。
 ただそれが、1カ所で集約開催されるファッションウィーク的なものを目指しているのか、それとも違うまったく新しいものなのかは分からない。しかしいずれにせよ、これは面白い方向であり、また限られたブランドが参加するSIHHだから可能な方向だ。
 これに対してライバルであるバーゼルワールド2019は一体どんな戦略、コンセプトで挑むのか。今回、SIHHの戦略が明確になっただけに、注目せずにはいられない。