松山猛の台湾発見/ラテン・アジアに日が昇る

2019.03.02

台中にある「無為草堂」は、茶芸館よりも気楽に台湾茶を味わえるようにという現代的なコンセプトで作られた茶館で、地元の若い人や観光客からも人気が高い。しかしながら茶や茶器には伝統的な茶芸の一式が揃えられており、台湾の喫茶文化が時代に即しながら引き継がれていることを感じる空間だ。
ラテン・アジアというのは僕の造語だが、台湾に足しげく通ううちに、その心温まる人々の生き方や、太陽にあふれた暮らしぶりを眺めるうちに、どこかラテン・アメリカの世界に似た雰囲気ではないのだろうかと考えたからだ。底抜けの陽気さは苦難を乗り越えてきた自信からくるものなのか。そんな南の暮らしの中で台湾の喫茶の世界が広がったのだろうか。

松山猛・著『ちゃあい』より(1995年、風塵社刊)


茶芸に遊ぶ

 台湾の都市には、多様なスタイルの茶芸館がある。茶芸とは中国式の茶道のようなものだが、これ、ひたすら合理的にうまい茶を自らいれて飲むための場所。茶好き人士のサロンなのだ。
 竹のインテリアの民俗派風もあれば明代の屋敷風あり、中には故宮博物院4階の「三希堂」(※編注:三希堂は閉店しており現在はない)のような清朝皇帝の居室を演出した茶芸館もある。
 台北には、映画『悲情城市』の侯孝賢監督が通った「客中作」茶芸館など、雰囲気のある店が多い。その映画のロケ地になった、かつての金鉱山の町九份にも、海を見下ろす茶の店があり、人々がなごむ場所として愛されている空間だ。茶を味わい、清談をする場として、また今では、ゆっくりとビジネストークをする場として、人々は好みの茶芸館へ通う。
 茶芸館こそは、勢いのいい台湾の、そのめまぐるしさの中のオアシスである。それにしても台湾の茶のうまいことよ。
 初めて入った茶芸館は、はてどこだったかと考えてみたら、そうそうあれは花蓮の町だった。友人の清和寛(※編注:松山氏と台湾取材に行った当時の編集者)と『サンデー毎日』誌の取材に出かけた時だから、もう十数年(※編注:1970年代頃)も昔のことだ。
 もう店の名前は忘れたが、花蓮市内のその店は、古い民家を改装したもので、何卓かのテーブルがあり、けっこう繁盛している店であった。
 テーブルの上には泡茶のための道具立てが用意されていて、席につくと、泡茶作法を心得た小姐が、我々のためにつきっきりで茶をいれてくれる。まず扱っている茶を書き出した品書きを見て、飲むべき茶を決める。
「けっこう高いもんだなあ、日本円で5000円はしますよ」と清君。たしかに今から十年以上も前のこと、当時の台湾の物価、いや日本の物価から考えても相当なものだ。
「でも鳥龍茶は、1杯飲んで終わりじゃないからね。5煎、6煎と飲めるし、上等の茶葉だと10煎近く出るんだよ」
「お客さん、もしよければ途中で新しい茶葉に替えて、また飲めるんですよ。この料金はこの小さな缶入りの茶葉を、充分に楽しんでもらうためのものです。残りの茶葉を持って帰ってもよろしいし」と小姐は言う。
 つまり一定の時間を、こうして上等の茶と共にのんびりと過ごす、一種の時間と空間の使用料だと言える。
 茶芸館によっては、今は客が自分で好みに泡茶できる店も増えた。茶のいれ方が一般に広まったのと、よりパーソナルに、自分流に楽しみたいという人が増えたからだと思われる。

 この花蓮行は、いろいろ思い出深いことが多く、今もくっきりと思い出せる。
 その年は、台湾東部を中心に地震の多い年で、滞在中何度も地震があったり、泊まっていたホテルのテラスであまりにもすごい夕立ちを見ていたら、ものすごく近くに雷が落ち、全身の毛が総毛立ったりした。髪の毛も、腕の毛までも皮膚に対して直角になったあの感覚は今も忘れられぬ。