松山猛の台湾発見/ラテン・アジアに日が昇る

2019.03.02

松山猛氏が、今はなき「馥園」という上海料理店で撮影した前菜のひと皿。「伝統的というよりフュージョンな調理法」だったと、食通の松山氏もお気に入りの店だった。松山氏は現在も年に何度も台湾に通い、美食探求に余念がない。


 また台風の当たり年でもあって、成田から出発する時からハプニングが続いた。空港でチェックインしようとすると、カウンターに張り紙があって、
「只今台湾東部に台風が接近中のため、本日の○○便は、台風通過を見定めた上で運行したいと思います………」というわけで、僕ら乗客は成田空港近くのホテルでひと休み。係の人の話だと約8時間は待つのだという。
「僕、ちょっとひと泳ぎしてきますんで」と鉄人清和寛は元気が良い。ちょうどあの頃、清君はトライアスロンに凝り、日本でのブームを作ろうとしていたのだった。
 それでも夜になって、日本アジア航空の台北行きは飛び、深夜近くに台北市内へ着いた。市内の道路脇には、倒れた街路樹はあるわ、型抜きのプラスチック看板は散乱しているわ、それはそれはすごい風景。
 予約してあった台北駅近くのホテルは、窓から雨が浸水して、ベッドの横が水びたし。
「なんか腹へんない?」
「そう、食べるタイミング逃したからねえ。松山氏どこか知ってます?」
「やってるかどうかわかんないなあ、こんな風の夜だからさ。そういや麺類の屋台が、ホテルの入り口の向こうでやってたな」
「それですよ」と、僕らはおっとりがたなで夜食のソバを食べに出た。
 屋台の人、やって来る客の皆が乱れまくった髪型をしていながら、猛烈な台風をやりすごした安心感でニコニコと嬉しそうなのだった。
 そのようなスラップスティック・コメディめいた日々の後だったから、心を静めてくれる茶芸館の在りようが嬉しかった。
 このごろは台北では、天母の「唐山茶宴」や「紫藤盧」などへ行く。西門町の「静心園」も時に古い中国音楽をライブでやっていたりして面白い。この前行った時は、経営者の娘らしい小学生が手本を見ながら習字をしていたが、これが小さいのに上手な字を書いている。立派な楷書なのだった。
「唐山茶宴」は、明代風のインテリアで、なかなか趣味が良い。ここは茶と中国の伝統軽食の両方を楽しめる店で、かの西太后が夢で見て、厨師に作らせたという「肉末焼餅」もメニューにある。これはふっくらこんがりと焼いた胡麻をのせた焼き餅をふたつに割って、中身をくりぬき、そこへ調理した肉をたっぷり入れて食べる中華風バーガーだ。「碗豆黄」「驢打滾」「芸豆巻」といった、昔の北京式の甘い物もある。
 一般にカボチャや水瓜の種、干した果物、南京豆といった田舎風のお茶受けが多かった台湾の茶菓の、これはニューウェイブか。
「芸豆巻」も西太后好みの味で、彼女はある時、通りを売り歩く菓子売りの菓子を気に入り、なんとすぐさまに自分専用の厨房に召しかかえてしまったというから恐れ入る。
 こうした北京風の甘味処は他にも「京兆尹」という店が台北にある。蓮の実を使った「永糖蓮子」やさっぱりとした「杏仁豆腐」などの水菓子風や、中国風の焼き菓子がいろいろあって楽しめる。
 さて台湾の心のふる里台中には「耕読園」という庭園付きの茶芸館がある。陽光あふれる日中でも、この庭の柳の大木の木陰が気持ち良く、庭の池のまわりの緑も涼感をもたらしてくれるのだ。店名は晴耕雨読から取られたのだろう。台湾の人々の懐古趣味は、年々深まりつつあり、こうした店は今後も増えるだろう。しかし、多くの都市が再開発ブームに湧き、2階建ての屋敷では空間利用の点からもったいないと、古い民家が急速に姿を消して行く昨今、こうした都会のオアシスはもはや貴重なのかもしれない。

松山猛プロフィール

1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
70年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。