1926年
初の防水腕時計 オイスターの誕生
1920年代の後半になると、多くの人々が懐中時計を想起させる丸型ケースに飽きてしまっていた。ウイルスドルフはこの傾向から結論を導き出し、オイスター・コレクションのラインナップをいち早く充実させた。ゴールドやシルバー、ニッケルメッキ仕上げの真鍮など、さまざまな素材を採用し、サイズの異なるクッション型や八角形のケースを幅広く取り揃えたのだ。
時速437.91km/h という、モータースポーツ界におけるセンセーショナルな速度記録を1933年に樹立することになるイギリスのレーサー、マルコム・キャンベル卿は、初期のオイスターを着用していた著名人のひとりである。キャンベル卿はロレックスに宛てた手紙で、称賛の言葉を贈っている。「私はレースの間、ずっとこの時計を着用していました。(中略)この時計は長時間、振動にさらされていたに もかかわらず、精度が損なわれることはありませんでした」。キャンベル脚のほか、アール・ ハウやアラン・コブハム卿、また、グランプリ 勝者のルイ・シロン、タツィオ・ヌヴォラーリ、 ルドルフ・カラツィオラなどのレーサーもロレックス“オイスター“ の素晴らしさを認め、自らのために利用した。
1933 年、エベレスト初登頂を競っていたふたつのヒマラヤ遠征隊の隊員たちも、ロレックス・オイスターのダイアルを眺めていた。登頂に失敗した原因は時計ではなかった。携行した時計が常に正確な時を刻んでいたことは、ヒューストン卿夫人と隊長のヒュー・ラットレッジが後にウイルスドルフに宛てた手紙の中で証言している。
1928年
量産の腕時計クロノメーター
ノーブレス・オブリージュ:初代プリンス
ロレックス・プリンスは、今も多くのコレクターを魅了してやまない。形式的にも技術的にも革命を体現しており、そのデザインは1920年代後期という時代に極めて合っていた。1926年8月26日、スイス知的財産庁にこのモデルの意匠登録が出願された。すらりと伸びたレクタンギュラー型ケースと珍しいダイアルを持つこの時計を購入できるようになったのは、1928年になってからである。
ダイアルの上部では時針と分針が回転し、下部は比較的大きな秒針が占めていた。良好な視認性に貢献するこの配置は、特にスポーツ選手や研究者、医者から高く評価された。”プリンス・デュオ・ダイアル”が”ドクターズウォッチ”の愛称で呼ばれるようになったのは、こうした理由によるものである。さらに、秒針を他の要素から独立させることで卓越した精度を具体的にアピールできることも、もうひとつの効果だった。ケースに隙間なく収まった"バゲッド" キャリバーT.S. (16.6 X 32.7mm) は、約58時間のパワーリザーブを備えていた。1936 年12月15日、プリンスは英国キュー天文台で、それまでに提出されたどの腕時計よりも優れた成績を収める。
ロレックスは当初、写真の“ブランカード“("ポータブル”の意)や、シンプルで約10%価格の安い“クラシック”というデザインで新作のプリンスを市場に送り出した。中でも、ストライプケースに入った1930年のブランカードは、とりわけ好評を博したモデルで、販売数は短期間で3倍に伸びた。1934年からはプリンスのスティールモデルも販売され、1935年には、ケースサイドに段の入った“レイルウェイ”(鉄道の意)というモデルも仲間入りした。ロレックスは、この“気品ある紳士のための時計”を“特に良好な精度“というランクの公認クロノメーター証明書とともに納入したが、当然生産数は限られていた。1935年には瞬時に切り替わるデジタル式のアワー表示とCal.H.S.を搭載したバリエーションが発表され、コレクションの牽引役としても本領を発揮した。カナダのデパートチェーン、イートンズも、プリンスの価値をよく理解していた。イートンズは、勤続25 年の社員を“四半世紀クラプ”に迎えることで、その功績に敬意を表していた。ダイアルにしかるべき文字をプリントしたゴールドのプリンスこそ、このクラブの会員であるの証であった。
1931年
自由に回転するローターを備えた初の自動巻き腕時計
オイスターパーペチュアル
「ロレックス・オイスターの完成は、自動巻き時計を作ったことによる必然的帰結である 。自動巻き時計では、ムーブメントが常に自動的に巻き上げられることで、時計が止まらないことが保証されている」。ウイルスドルフは自叙伝にこう綴る。密閉された防水ケースには、毎日リュウズを巻く必要のないムープメントが必要だったのである。ねじ込み式リュウズを緩める動作を繰り返し行えば、長い目で見れば気密性に影響が出る。また、リュウズを締め忘れた不注意なユーザーは、厄介な結末を甘受しなければならない。
こうして、技術者、エミール・ポーラーの出番がやって きた。"ノイズがまったく発生せず、振動もなく、バンパーも使用せず、ローターが両方向に回転する自動巻き上げ機構の発明”こそ、まさに“賢者の石”であった。この野心的な目標は1931年に達成される。片方向巻き上げ式ローターを搭駐した、こうしたタイプでは唯ー、厚さ7.5mmのCal.NA620に特許を取得する際、弁理士は実に完璧に仕事をこなした。バンパースプリングを必要としない、腕時計にふさわしい自動巻き機構がようやく完成したにもかかわらず、他のコンペティータは続く15年間、その利用を断念せざるを得なかったのである。
腕をわずかに動かすだけで、主ゼンマイに はエネルギーが供給され、この時計を毎日6時間、手首に着用すれば、35時問分のエネルギーをチャージすることができた。その後も絶え間なく改良が重ねられ、設計の見直しも頻繁に行われた。信頼性の高い原理と"ロレックス・パーペチュアル"の哲学は、現在に至るまで何ひとつ変わっていない。可能な限り薄いムープメントを作ることに主眼が置かれたのではなく、高精度や信頼性、耐久性が最も重視された。スモールセコンドを搭駐した自動巻きのニューカマーは当初、ケースがふくらんでいたことから`“バブルバック“の愛称で呼ばれるようになった。
1945年
初代デイトジャスト ひとつの時計ですべてを網羅
ハンス・ウイルスドルフがジュネーブで会社設立40周年を祝う1945年には、当然のことながら、それにふさわしい記念モデルが必要であると誰もが考えた。オイスターケース、自動巻きのローターメカニズム、クロノメーター証明書といった、ロレックスがそれまでに成し遂げた成果をひとつのモデルに集約することは言うまでもなかった。王冠のロゴを持つこのブランドが総仕上げとして付け加えたのは、午前零時ちょうどに切り替わる、視認性に優れた3時位置の日付窓であった。重要な要素をすべて備えた新型デイトジャストが伝説の時計となり、アメリカで20世紀の腕時計に選ばれたのも不思議ではない。デイトジャストは当時、ほぼ完璧な仕上がりを見せていたが、ロレックスは数十年の間、この不朽の名作にも絶え間なく改良を重ねてきた。とは言え、デイトジャストの特性を堅持するため、改良は繊細な範囲に留められ、今日に至る。
1953年
エクスプローラーの前身 エベレストでのオイスター
1921年以降、標高8848m のエベレストは、世界最高峰として登山家を魅了してきた。だが、1953年まで、エベレストは登山家たちの挑戦をことごとく拒んできた。この年、陸軍大佐、ジョン・ハント卿がイギリスのエベレスト遠征隊の隊長に指名される。この遠征隊には、ニュージーランド出身のエドモンド・P・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイも名を連ねていた。念願がかない、雪と氷に覆われたヒマラヤ東南稜の征服に成功したのは、ヒラリーたちのチームであった。1953年5月29日午前11時30分ちょうど、ヒラリーとノルゲイはエベレストの山頂に到達する。
時刻について、このチームはロレックスに信頼を寄せていた。エベレスト遠征時に着用された時計に関しては、さまざまな見解がある。1953年の初頭、ロレックスはホワイトダイアルのモデルを提供する。同時に、ブラックダイアル、時刻をしっかりと確認できる夜光インデックス、3時、6時、9時の夜光数字、12時位置の夜光三角マークを備えたオイスターパーペチュアルの特別モデルも供給していた。Ref.6150 のこれらの腕時計には、夜光塗料を塗布した独特なフォルムの時針、分針、秒針が装備されていたが、両者にはまだ “EXPLORER"の文字は入っていない。
こうした極めて珍しい探検用腕時計の1本を、テンジン・ノルゲイも着用していた。スイス人登山家レイモンド・ランベールがノルゲイに贈ったもので、1988年7月19日、ロンドンのオークションハウス、サザビーズで、ロット番号117番で競売に付された。ケースに "IV53"の文字が刻まれていることから、この時計が製造されたのが初登頂の1カ月前の1953年4月であることが推測される。無事帰還したジョン・ハント師は、1953年6月15日、ロンドンに向けて次のように書いている。「(時計が)これほど正確に時を刻み続けたことは、私たちにとって非常にありがたいことでした。そのおかげで、隊員同士、常に正しく時計を同期させることができたのです。(中略)自動巻き時計は最終的に、ゼンマイを巻き上げる作業をチームに代わって引き受けてくれました。標高が2万5000フィートを超えてくると、これは是非とも必要になります。なぜなら、標高の高い場所では思考が緩慢になり、その結果、時計を巻き忘れることもあるからです。(中略)私たちは今では、ロレックスオイスターを高山装備品の中でも重要な必需品と考えています」。