「ジュネーブ・ウォッチメイキング・グランプリ 2018」での「リサイタル22 グランドリサイタル」出品において、金の針賞受賞に輝いたボヴェ。
1822年にエドゥアール・ボヴェによって創業したボヴェは、かつて主に中国市場向けの時計作りを行っていた。現在知られているボヴェは、元は製薬業界に身を置いていた時計コレクターであるパスカル・ラフィによって2001年に買収されたものである。ラフィはその後、スイスにある工房をも買収し始めた。自社の独立性を保つためだけでなく、生産における全ての局面において、完全にクオリティーコントロールするためである。ボヴェのこれまでの発展について、オーナーのパスカル・ラフィに話を聞いた。
Text by Roger Ruegger
現在ボヴェは、自身の懐中時計の歴史に根差した高級時計を開発しており、自社製ヒゲゼンマイ製造をはじめ、文字盤製作、ムーブメント設計まで自社内で行っている。またブランドが得意とするものに複雑機構のムーブメント(例えば「リサイタル22 グランドリサイタル」は太陽、月、地球の3つの天体を再現した天文時計で、裏側にはレトログラード・パーペチュアルカレンダーを搭載し、パワーリザーブは約216時間)の製造、仕上げと、そしてアマデオコンバーチブルシステムと呼ばれる互換性のあるケースシステムがある。この特許取得の構造により、時計は腕時計として、また懐中時計として、そして小さなテーブルクロックとして使用することができる。ボヴェには現在100人以上の社員が在籍し、年産は約2000本までとなっている。
シャトー・ドゥ・モティエ(以前はヴォートラヴェールと呼ばれていた)は14世紀にヌーシャテルのロドルフ4世によって建てられたものだ。アンリ=フランソワ・デュボワ=ボヴェがそれを1935年に買い取ったが、彼の子孫は城を1957年にヌーシャテルに寄贈している。2006年にはパスカル・ラフィの手に渡り、大規模改修を経てボヴェの組み立て工房となった。以前からラフィがこの城に興味を持っていたわけではない。彼曰く、「6000㎡に及ぶこの城を手にしたところで、ただ頭痛の種になるだけだと思っていた。このような建物をメンテナンスするのがいかに大変かよくお分かりでしょう」。しかし実際に城を見学に訪れた際にその考えが変わったという。そこは想像していたようなだだっ広い城ではなかった。加えて、ボヴェ家が暮らした家だったという情報が入ったことが購入の決め手となった。「もしボヴェが関係した建物であれば、城であってもコレクションの対象になると思ったのです」とラフィは語る。おそらく彼のこの決定の裏には、フルリエにあるエドゥアール・ボヴェの居宅が町役場として使用され、ボヴェもメンバーであるカリテフルリエ財団も現在その中に拠点を置いていたことが作用したかもしれない。
城を購入してわずか2カ月後の2006年、パスカル・ラフィは他の不動産の提案も受けることとなった。それは高級時計の工房として知られていたディミエの建物だった。当時ディミエは既にボヴェをはじめいくつかの高級ブランドにムーブメントのパーツを供給しており、72名の社員を抱えていた。ラフィは早々に購入意思の意思を示した。ラフィ自身がディミエのあるトラメランに赴きそこで働く社員たちに面会し、この城を自身のポートフォリオに組み込むことを決めたのである。「社員たちの目を見たとき、ああ、ここには情熱がある、と思いました」。
ラフィの「本当の時計作り」の冒険は、ここで終わりではなかった。2006年の9月にはボヴェ1822マニュファクチュール・ドゥ・カドラン(カドランは仏語で文字盤の意)の買収によって、ボヴェの内製率が更に高まった。ラフィはまた、ボヴェにケースを供給している会社の株式を保有しており、これにより外注パーツは非常に少なくなったのである。
パスカル・ラフィにとって、これらの投資は突然4つの異なる工房を持つことを意味するだけではなかった。「2005年には、社員は38名でした。2006年12月にはそれが143名となったのです」。ラフィは続ける。「私は自分が好きなことをするのです。自分の時計が好きですし、情熱を持った社員たちがそれを作り出してくれる。これらはクレイジーで、同時にあなたの人生を満たすものです。」
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