バーゼルワールド2019 前代未聞のクロージング・プレスカンファレンスで感じたこと、考えたことVol.1

ウォッチジャーナリスト渋谷康人の 役に立つ!? 時計業界雑談通信
渋谷ヤスヒト:取材・文・写真 Text & Photographs by Yasuhito Shibuya

 2019年3月26日正午(スイス時間)、バーゼル・メッセのホール1.2、つまり日本式の3階に新たに設けられたステージ。メインステージ前を埋めた100人あまりのジャーナリストを前に、バーゼルワールド2019のクロージング・プレスカンファレンスは始まった。ひとり壇上に立ったのは、2018年5月末からバーゼルワールドのマネージングディレクターに就任したミシェル・ロリス-メリコフ氏。

 壇上のメリコフ氏はまず「Key Facts」として来場者数が前年比マイナス22%の8万1200人、出展ブランドが同マイナス20%の520ブランド、来場したメディア関係者が同マイナス12%の3300人だとリアルな数字を明らかにした後、ネットやSNSでのアクセス数が増えていることも紹介。その後「バーゼルワールド2000+(プラス)」と名付けた10項目にまとめた膨大な改善策について説明を始めた。

 弁護士でもある氏が力を込めて語るこの壮大な改革プランを聞きながら、1995年に時計ライターとしての師匠である菅原茂氏と初めて訪れた当時のバーゼル・フェアの会場を思い出していた。

2001年のバーゼル・フェアで撮影した写真。この2年後、2003年に一部改装され、フェアの名前も現在の「バーゼルワールド」に改められた。

 当時のバーゼル・フェアはエントランスこそ風格があったが、完全空調ではなく、トタン屋根の部分がある昔ながらの建物。フロアに敷かれたカーペットのせいだろうか、会場内は埃っぽく、1日中駆け回ると乾燥で鼻や喉がヒリヒリしたことを鮮明に覚えている。大手ブランドのブースは現在同様に立派なものだったが、現在のホール1の両サイド、通路として使われているところにも、スケルトンウォッチを得意とするアーミン・シュトローム氏のような、小さな時計ブランドがひっそりと小さなブースを出していた。さらに当時は、時計の工具や部品、製作機械のメーカーが出展するエリアもあり、そこには時計ブランドとは違う種類の活気があった。

 ジュネーブからバーゼルに移動した翌日。会場内の通路を歩いていると、背後から突然、バシッと誰かに肩を叩かれたのも忘れられない思い出だ。振り返ると、そこにはジュネーブのSIHHでインタビューしたばかりのフランク・ミュラーその人がいた。当時の彼は真紅のジャケットを着た笑顔が絶えない気さくな青年で、バーセル会場をたったひとりで歩いていた。独立時計師仲間のいるアカデミー(独立時計師協会)のブースを訪れるのだろう。

 その後、彼は一気に世界的な時計ブームの中で年を経るごとにハリウッドセレブのような大スターに上り詰め、巨匠の風格を身に付けてWPHHを独自開催することになる。だが当時の彼は、バーゼルでは若くて元気な時計師のひとりだった。

 年に一度、時計に関わるすべての人たちが必ず足を運び、集まる場所。それが当時のバーゼル・フェアだった。ジュネーブのSIHHのようなラグジュアリー感を感じるのは、大手時計ブランドのブースの中だけ。ハイジュエリーブランドから時計師がひとりで立ち上げたプライベートブランド、カジュアルウォッチブランド、ムーブメントメーカー、ウォッチケース、工具や工作機械、そしてジュエリーやジュエリーの素材を扱うブースまで。すべてが雑然かつ混沌としていた。だが、あらゆる場所に活気が溢れていた。

 2003年、エントランスこそ昔を引き継いだが、バーゼル・メッセのメインホールはガラス張りのモダンな建物に改築され、出展ブランドはさらに増えていった。その中で雑然とした雰囲気はホール5に受け継がれ、独立時計師協会や小さな時計ブランド、ムーブメントメーカーが軒を連ねる、ごく限られたエリアだけになっていく。ブースと空間のラグジュアリー化が狙いであった。

2003年のバーゼルワールドの外観。

上の写真の人物は、現『クロノス日本版』発行人であるシムサム・メディアの松﨑壮一郎社長その人である。当時は、エスクァイア マガジン ジャパンの社長であった。

 さらに2013年、バーセルワールドの雰囲気は一気にモダン&ラグジュアリーに一変する。リニューアルデザインを手掛けたのは地元バーゼル出身の建築ユニット、ヘルツォーク&ムーロン。ただ、来場者へのホスピタリティもサービスも昔のまま。空間だけがラグジュアリーな雰囲気になり、出展料はさらに高額になっていく。ニクソン、ダニエル・ウェリントン、そして最大級のブースを作ったスワロフスキー。さらに立体駐車場の横の広場には、巨大なテントが張られ、独立系の新進ブランドが多数出展していた。

2013年に完成した地元バーゼル出身のヘルツォーク&ムーロンによる外観デザインは、今もインパクト抜群なのはさすがだ。

 どうでもいいことだが、この全面改装で、プレスセンターも明るく快適になった。しかし、思い返してみると、間違いなくこのあたりからバーゼルワールドは迷走を始めていたのだろう。新たに出展するブランドがある一方で、出展を取りやめる中堅ブランドの話をいくつも聞いた。彼らは、バーゼルワールドではなく、隣接するラマダホテル(現ハイペリオンホテル)や近くのホテル、レストランへと展示ブースを移していった。彼らは「出展料が高過ぎるよ」と口を揃えた。また「バーゼルワールド事務局は高額な建築費の減価償却を最優先して出展料を吊り上げているのではないか」という不満も聞いた。この改装でメインホールには3階が増設されたが、人はまばらだった。昔の、雑然としたあの活気はどこへ行ったのだろう。これはいくらなんでも拡張し過ぎだ。そう思った。

 改めて振り返ってみて思う。フェアを運営するバーゼルワールド事務局、そして親会社のMCHグループにとって、1990年代から2014年ごろまでの「フェアの成功」は彼らの期待を遥かに超えるものだっただろう。

 そもそもは雑誌編集者、時計ジャーナリストとして出発したが、仕事上の必要性から時計業界の動向についてアナリスト的な記事や解説を行うようになった筆者が、スイスの時計産業について解説するときにまずお伝えするのが「1990年代から現在まで、四半世紀の間にスイスの時計輸出額は4倍になった」という話だが、バーゼルワールド事務局は時計業界以外で、この成功の恩恵を最も享受した企業のひとつに違いない。

 ヨーロッパで起きた高級時計ブームが日本やアメリカ、アジアへと拡大、市場が世界に広がる過程で、バーゼルワールドへの出展は時計ブランドにとって「世界へのデビュー」を意味した。出展料が高いと思っても、当時、これに代わるステージは他にない。世界進出できれば元が取れる。そう考えて出展を決断した時計ブランドは多かったはずだ。そして2010年代前半まで、ほぼそのもくろみ通りに好景気は続いた。

 だが、どんなことにも必ず終わりは来る。スイス時計の海外総輸出額は2014年に史上最高を記録するが、それ以降はマイナスに。もはや、劇的な需要増が期待できる市場はない。時計ブランドは従業員のリストラに踏み切った。夢は終わった。そんな認識が広がった。

 この状況で高騰する出展料にそれだけの価値があるのか? こんな議論が時計業界の中で交わされたに違いない。そして「撤退」が静かに始まった。

 出展ブランドのこうした動きにバーゼルワールド事務局が気付かなかったはずはない。ただ、これまで成功体験に酔ってきた、それが当たり前と思っていた彼らは危機から目を逸らし隠蔽しようとした。統計自体の対象企業を変えて偽りの好景気を演出してきたどこかの国の政府のように、正確な出展ブランド数の発表をやめ、プレスリリースや出展ブランドのトップインタビューを美辞麗句で固めて、突き付けられた問題を先送りした。今の状況はその当然の、いや必然の結果である。ここにいるほとんどのベテランジャーナリストが、この見解に賛同するだろう。

(Vol.2に続く)