東洋元気食堂
台湾の美食を語るには、その歴史についてひもとかねばなるまい。中国大陸の東、北回帰線上に浮かぶ亜熱帯の楽園には、数千年前から南方から島づたいに北上した人々が住み始めた。この島をフォルモサと呼ぶようになったのは、太平洋を航行していたポルトガル人が、あまりの美しい島影に感激し「麗しの島(イラ・フォルモサ)」と呼んだからと言われる。
大陸沿岸福建省。やや遅れて広東省の漢民族が移住したのは明の時代からで、それからもオランダ領とされたり、清国の一部となり、さらに日清戦争後馬関条約により、日本領にされるなど、さまざまな歴史の波に洗われ続けてきた。
台湾の味覚は、その文化的混合のたまものであるような気がする。もともと野生の果実や芋、山野の鹿や猪、なかにはムササビのような小動物が自生していて、今や少数民族として九族を数える高地少数民族の食があった。
そこに福建の稲作、製茶、家畜飼育、漁労等が移入されて独特の食の世界が始まったのだ。
日本時代に加わった料理法が台湾の食に大きな影響を与えたのも、この島の特徴だ。
台湾料理には、どこか我々日本人の味覚をくすぐり、元気づけてくれる魅力がある。この十数年台湾に通いつめて、最近になってようやく台湾の何であるかが分かってきたのだ。
激しい変転の歴史にもめげず、台湾の人々は明るく、たくましく生きてきた。豊富な食物、元気いっぱいの素材、シンプルにして合理的な料理があったからこそ、台湾は元気島なのではないか。
土地によっては二期作の米がとれる。野菜がとにかく元気に育つ。それにチャンスがあればよく働いて、生活向上に意欲的なのだ。
さて、台湾料理の風味と言えば「五香粉」、それに紅葱頭(エシャロット)を油で炒ったあの香り。通奏低音のように台湾の料理が持つそれらの香りが、インドのマサラのように、暑気を払い食欲を増進させてくれる。
かくして台湾人はよく食べ、よく働いてGNPを押し上げてきた。ドルの保有量もすごく、台北、高雄、台中の三大都市には高層ビルが天にも届けと林立するようになった。
ニーズ(NIEs)の優等生としてがんばり、自分たちのほうびとして美食を楽しむ人々の島、台湾。えっ、そんなに働きづめでどうするのかって。そんなのは不要(プーヤオ)心配であります。神技的なフットマッサージあり、たっぷり2時間かけての観光理髪店での全身マッサージありと、リラックスに彼らがかける情熱もただごとではない。
論より証拠だ。台湾へ行こう。私事だが、台中には3年間食いそびれた真実の味があるのだ。なんだったらウーロン茶で足を洗ってマッサージしてもらえる「足楽室」付きのサンパツ屋もあるしね。
台湾へ行って元気をもらおう。どこか煮つまった日本を、ひととき離れて、人生の真実と実質を味わい尽くしに出かけるのだ。充実感で寿命が伸びるぜ、ほんと。
1946年8月13日、京都市生まれ。
1964年、京都市立日吉が丘高等学校、美術工芸課程洋画科卒業。
1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの友人、加藤和彦や北山修と共に作った『帰ってきたヨッパライ』がミリオンセラー・レコードとなる。
1970年代、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』『ブルータス』などの創刊に関わる。
70年代から機械式時計の世界に魅せられ、スイスへの取材を通じ、時計の魅力を伝える。
著書に『智の粥と思惟の茶』『大日本道楽紀行』、遊びシリーズ『ちゃあい』『おろろじ』など。