美術的発展をも促した時計産業
こうして19世紀から20世紀へ移行する頃には各事業主たちが成功を収め、ラ・ショー・ド・フォンに黄金時代をもたらした。街の至る所にその恩恵が表れるようになったのは、それまで時計産業に関わりのなかった人々にとっても喜ばしい限りだったに違いない。というのも、この時期には美術史の中でも重要な芸術運動の傾向のひとつであるユーゲントシュティールが時計産業と結び付き、多くの文化資産がつくられたのだ。19世紀末、ユーゲントシュティールの中でもラ・ショー・ド・フォン独自の様式も生まれている。〝スティル・サパン〞(モミの木様式)と名付けられたこのスタイルは、モミの木の枝や球果をモチーフとしたものが多い。これはジュラ地方の森に想を得たものだという。スティル・サパンの発案者であるラ・ショー・ド・フォン出身のシャルル・レプラトニエは美術教師で、1903年には市立美術学校の校長に就任している。レプラトニエの教え子たちは建物のデザインの傍ら、注目すべき仕上げの時計ケースも数多く製作した。そのいくつかは、今日もラ・ショー・ド・フォン国際時計博物館にほど近い、同じ通りにある美術館(ミュゼ・デ・ボザール)で見ることができる。スティル・サパンの特徴的な建物のひとつが、ニュマ・ドロ通り143番地にある。1911年竣工のこの建物は、ユーゲントシュティールをベースにアールデコも採り入れられた造りだ。かつては時計会社に使用されていたこの建物には現在、ルードヴィッヒ・エクスリン博士が暮らしている。また、この通りをワンブロック進んだ136番地に建っているのは、故ルイジ・マカルーソが多く所有していた建物のうちのひとつだ。ジラール・ペルゴを擁するソーウインド グループのトップで、スイスの高額所得者層の中でも上位にランキングされていた故〝ジーノ〞・マカルーソは、自身も建築家だったこともあり、ニュマ・ドロ通りの建物を2001年に取得。修復に1年以上費やして、ユーゲントシュティールの味わいにあふれる華やかな階段や、トロンプルイユと呼ばれる騙し絵的手法で遠近感を演出した空間、ステンドグラスの窓などを再生させた。このヴィラは、建築家レオン・ボワロがシュウォブ家のために設計したものであった。1904年から翌年にかけて増築され、1918年には時計工場として使用されていたが、現在はジラール・ペルゴの社屋として、ムーブメントの製造や研究開発棟となっている。
故マカルーソが所有した建築物は、ここから数軒進んだプログレ通り129番地にもある。1986年に購入したこの建物は、地場産業の礎となった時計師への敬意を表してヴィラ・ジャンリシャールと名付けられ、現在、同ブランドの本拠地となっている。この建物も同じくシュウォブ家が1907年にボワロに設計させたものだ。装飾豊かなフォルクローレスタイルに仕上がっていて、あたかもおとぎ話の中の善き伯爵の家といった雰囲気だ。その中に〝スイス・ルネッサンス〞と呼ばれる要素もいくつか見られる。ちなみに、ここにはジャンリシャール社のほかにも、アンティーク時計工作機器のミュージアム(予約制)も入っていることに注目したい。古いギョーシェ彫り機や1900年製の旋盤などが展示されていて興味深い。
さらに、この近くには1918年に建てられたヴィラ・マルゲリータがあり、現在、ジラール・ペルゴのミュージアムとなっている。このヴィラもやはり童話風の目に楽しい造りである。ソーウインドの名所巡りの締めとして、ヴィラ・マルゲリータから2軒先のシュクセ通り(成功通り)に面した建物を紹介しよう。ジラール・ペルゴの組み立て工房になっているこの建物は、鮮やかな青が目を引き付け、芸術運動盛んなりし頃の活気ある空気を彷彿とさせる。
この黄金時代がもたらした建築物は、時計産業に限ったことではない。ドゥブ通りやぺ通り(平和通り)に並ぶ多くの住宅は、外見からはまったく分からないものの、中に入ると手間の掛かった仕上げのスティル・サパン装飾が見られる。それはことに階段に顕著だ。トロンプルイユ手法に則った、大理石を装った騙し絵などを頻繁に目にすることができるだろう。驚くべきことに、これらの集合住宅の1階の入り口の扉は、たいていの場合は鍵が掛かっていない。うれしいことに、観光で街を訪れた者でも中に入って凝った装飾を見物して、ほとんどお金を掛けずに往時の息吹に触れることができるというわけだ。
ダヴィド-ピエール・ブルカン通り55番地の建物は、名高い建築家のルネ・シャパラの設計によるものだ。ル・コルビュジエの師だったシャパラは1904年に、時計師一家のジュリアン・ギャレのためにこの建物を設計している。ギャレは1826年に自身の名を冠した時計会社を設立、以後100年もの長きに渡って、さまざまなブランドにムーブメントを供給していたが、その間に社名は幾度も変更していた。この建物は、20世紀初期のスイスの最も美しい建築物の一例として挙げられている。1909年、ギャレ家はシャパラに新工場の設計を任せた。ギャレ家の人々は、ラ・ショー・ド・フォンでも有数の芸術後援者で、アートミュージアムにも多額の寄付を行っていたようだ。ドンゼの著作によると、一族のうちのジョルジュ-レオン・ギャレは、自身の会社が1928年に倒産した後に、ミュージアムの学芸員になったという。
現在、ラ・ショー・ド・フォンにある最も有名な建物は、ユーゲントシュティールの時代から数年後に造られたものだ。表現はスティル・サパンの様式からがらりと変わったものになっている。ヴィラ・トゥルクという名のこの建物は、1917年にシュウォブ家のために設計され、現在はエベルの所有物だ。これはラ・ショー・ド・フォンを代表する人物のひとりであるル・コルビュジエの初期の作品である。1887年、セール通り38番地にエナメル文字盤職人の息子として生まれたル・コルビュジエは、本名をシャルル-エドゥアール・ジャンヌレ-グリという。ケースのエングレービングの技法も学び、この街には30歳まで暮らしていた。この時期には多くの住宅を設計している(その最も有名なものがヴィラ・トゥルクとプイエレル12番地のメゾン・ブランシュ)。それらの住宅の多くは、時計事業主のために設計されたものだ。室内全体のしつらえや部屋数の多さは、富裕層である彼らが好むものだったのだろう。ヴィラ・トゥルクのデザインは、ル・コルビュジエがトルコのボスフォラスへ旅をした際にインスピレーションを得たことが基になっていて、館の名も自らの命名によるものだ。そして、後年はヴィラ・トゥルクのみを自らの作品として認めている。プイエレル通り1番地に建つヴィラ・ファレなど、ル・コルビュジエの初期の設計のものは、いかにもスイスらしい魅力があるものの装飾過多で、彼はこれらを自身の若い頃の作品とは認めないようになったのだ。