1930年代から60年代までの文字盤の製造方法を今に伝える珍しいサンプル。銀の印字はプリントではなく、メッキ仕上げ。それを保護塗料でマスキングして、上から黒メッキをかけ、マスキングをはがすと下の印字が現れる。ただし、発色が難しい赤は、上からデカルク(転写)で印字を載せている。1930年代から60年代までのクロノグラフやカレンダーウォッチは、しばしばこの製法で作られた文字盤を採用した。しかし現在、この手法はほぼ廃れてしまった。自動巻き。SS(直径43mm)。3気圧防水。89万円。問ブライトリング・ジャパン☎03-3436-0011
文:広田雅将 Text by Hirota Masayuki
[クロノス日本版 2015年5月号初出]
現代の文字盤技法最前線
現在、時計メーカー各社が最も力を注いでいるのが、文字盤である。そのため、毎年のように新しい手法を見ることができるようになった。ただし、文字盤の製法は今も昔も大きくは変わっていない。メッキで色を付けるか、塗装で色を付けるか、だ。では、過去とは一体何が変わったのか。答えは塗料である。
(上右)真鍮に筋目を施し、上に銀メッキをかけた状態。その上から印字の部分をマスキングする。
(上左)黒ニッケルメッキを施した後。赤はマスキングした部分。マスキングをはがすと、保護されていた印字が残る。
(下右)。全体を保護した後、インダイアルの部分を切削。そこにメッキを施した状態。
(下左)インデックスの取り付け。脚を文字盤に差し込み、裏から折り込んでカットすると完成だ。
文字盤に色を付ける場合、手法はふたつしかない。メッキか塗装か、だ。一般論を言うと、前者は薄く仕上がる一方、色は安定しない。後者は色が安定する半面、塗膜が厚くなる。
分かりやすい例が黒文字盤だろう。そのほとんどは、今も昔も、基本的には塗装仕上げだ。メッキだと、鮮やかな黒色を得にくいためである。しかし、ごく稀に、あえて黒メッキ文字盤を持つ時計もある。そのひとつが、ブライトリングの「ナビタイマー」だ。
回転計算尺を持つナビタイマーは、それに対応すべく、文字盤の外周に細かい目盛りを持っている。今の塗料なら、これだけ細かい目盛りも、印刷で与えられるだろう。しかし、かつての油性エナメル塗料では、細かい印字を与えるのは難しかった。
そこでブライトリングは、一度、文字盤の上に銀メッキをかけ、目盛りだけをマスキング、その上に黒メッキをかけ、乾燥後にマスキングをはがすという製造法を選んだ。1930年代や40年代のクロノグラフには、この手法で作られた文字盤を時々見る。しかし、量産機で採用したのはおそらくナビタイマーが初で、以降も存在しないのではないか。歩留まりは相当悪いはずだが、当時、精密な目盛りを与える方法はこれ以外になかった。そのため、ブライトリングは一貫して、黒メッキの文字盤をナビタイマーに与えてきた。そして、黒メッキで仕上げられたブライトリングの文字盤は、当時の油性エナメル塗装よりも、耐候性に優れていた。かつてのナビタイマーが、今も比較的良好なコンディションで残っている理由である。
黒文字盤の標準的な仕上げが塗装である。これは、製造が容易な上(ミリタリーウォッチが黒文字盤を持つ一因だ)、発色にも優れている。ただし、下地のニュアンスが残せないため、繊細さを強調する高級機には向かない。したがって、スポーツウォッチに多く見られる。
現行品で、塗装による黒文字盤を持つ時計は数多いが、最も優れたもののひとつがオメガの「シーマスター 300 マスター コーアクシャル」だろう。一般的に、塗装した文字盤はニュアンスに乏しくなる。それを逆手に取ったのが、表面を完全に研ぎ上げたラップ文字盤である。対して、オメガは塗料を荒らすことで、表面をザラザラに仕上げた。オリジナルモデルが「荒れた」文字盤を持っていたのは、塗装の食いつきを良くするためである。一方、現行モデルはニュアンスを出すためにわざと表面を荒らしている。 では、いわゆる高級機になると、文字盤の仕上げはどう変わってくるのか。塗膜(クリアを含む)は薄くなり、下地のニュアンスが目立つようになってくる。つまり、文字盤の仕上げを見れば、その時計が実用性を狙っているのか、あるいは高級さを打ち出そうとしているのかは、ある程度判断は可能だろう。
実用性を重視するオメガは、一貫して文字盤を「厚く」仕上げてきた。一時期黒メッキを採用した同社だが、近年はまたラッカーに回帰しつつある。一例が、「プロプロフ」で用いられたポリッシュ研磨のラッカー文字盤だろう。しかし同社は以降、製法と意匠をさらに改善。「シーマスター 300 マスター コーアクシャル」の文字盤では、塗装をちりめん状に吹く手法を採用した。これは厚い塗膜と深い黒、そして表面の微妙なニュアンスを両立したものである。自動巻き。SS(直径41mm)。300m防水。64万円。問オメガお客様センター☎03-5952-4400
下地を生かすという点では、F.P.ジュルヌの「クロノメーター・スヴラン」が最も優れたサンプルだろう。文字盤のベースは18Kゴールド製。それに弱いブラスト処理を施して下地を荒らし、上にごく浅く銀メッキを載せている。文字盤の色が銀にも金にも見えるのは、薄いメッキを通して、下地の金が光るためだ。このニュアンスを生かすべく、文字盤に吹かれたクリアは非常に薄い。
超高級機の典型的な文字盤を持つのがF.P.ジュルヌだ。このモデルは、文字盤全体の素材が18Kゴールド製。フランソワ- ポール・ジュルヌ氏はインデックスの製法を明かさなかったが、少なくとも文字盤の地は、細かいブラストを弱い気圧で吹き付け、表面を荒らしたもの。そのニュアンスを残すため、上からかけるクリアもごく浅い。インデックスは変色を防ぐためにクリアを厚盛りしているが、全体のニュアンスは高級機らしく、ごく繊細だ。手巻き。18KRG(直径38mm)。30m防水。356万2000円。問F.P.ジュルヌ東京ブティック☎03-5468-0931
こういった「薄い」アプローチの先駆者に、パテック フィリップの「ノーチラス」がある。普通、スポーツウォッチは、実用性を考慮して、塗膜を厚くした文字盤を持つ。しかし、1976年に発表されたこの時計は、繊細な下地を生かすべく、ごく薄い塗装が与えられた。これは、同年代に発表されたオーデマ ピゲ「ロイヤル オーク」も同様である。ただし、これらの試みは、あまりにも早すぎた。というのも、塗膜を薄くしたため、文字盤は容易に劣化したのだ。
もっとも、耐候性に優れる塗料が使えるようになった現在、高級時計は、容易に薄い仕上げを選べるようになった。また、メッキの技術が進歩した結果、ノーチラスはメッキを採用するに至った。だが、薄く仕上げるというアプローチは従来に同じ。しかし、筆者の見聞きする限り、耐久性は劇的に改善された。
こういった「薄くする」手法は、今や買える価格帯にも広がりつつある。ジャンリシャールの卓越した「アクアスコープ」は、おそらくプレスで仕上げた、しかし精密な文字盤を持っている。その上に施されたのは、ブルーラッカーである。銀色に光っているのは、下地にメッキを施してあるため。そして、繊細なニュアンスを殺さないように、ごく浅くラッカーが吹かれている。
文字盤で野心的な試みを続けるジャンリシャールのコレクション。最近のモデルは、立体感をいっそう強調すべくインデックスを変更。インデックスを見返しのリングに固定して、文字盤から浮かび上がらせる「サスペンディッドインデックス」に切り替わった。昨年、発売されたのは、文字盤に葛飾北斎の「富嶽三十六景神奈川沖浪裏」を刻印したモデル。繊細な模様を損なわない程度に強く筋目を付け、その上から浅くラッカーを吹いている。自動巻き。SS(直径44mm)。300m防水。28万円。問ソーウインドジャパン☎03-5211-1791
最後にもうひとつ例を挙げるならば、グラスヒュッテ・オリジナルの「セネタ・クロノグラフ・パノラマデイト」は、極度に繊細な文字盤を持っている。文字盤のメッキは、電着ではなく手ですり込んだもの。耐候性があるのかは疑問だが、それと引き替えに、文字盤が放つ表情は実に見事だ。
技術の進歩がもたらした、いわば〝文字盤の革命〞。それは今後も、さらに続くことになるだろう。
フォルツハイムのT.H.ミュラー社を統合することにより、グラスヒュッテ・オリジナルは、極めて優れた文字盤を製造できるようになった。ただし、この文字盤は、グラスヒュッテの工房製。すでにセネタ・クロノメーターに採用されたラ・ジェンチュア・グレネー文字盤が、新しい自社製自動巻きクロノグラフムーブメント搭載機にも与えられた。そのムーブメントは極めて現代的。しかし、文字盤の仕上げは19世紀の懐中時計に倣ったものだ。自動巻き。P(t 直径42mm)。30m防水。518万円。問グラスヒュッテ・オリジナル ブティック銀座☎03-6254-7266
グラスヒュッテ・オリジナルの工房での文字盤製造
グラスヒュッテ・オリジナルの工房では、古典的な「ラ・ジェンチュア・グレネー」(摩擦銀メッキ)文字盤が製造されている。