機械式時計を手掛け、高級と称されるブランドは数多い。しかしその中でもひときわ輝き、圧倒的な存在感を放つのが「ブレゲ」だ。そのブレゲの愛好家と言われたマリー・アントワネットがオーダーしたとされる「NO.160」の、神秘的な魅力を探る。
ブレゲとマリー・アントワネット
ブレゲと聞き、すぐに高級腕時計ブランドだと連想できない人も、逆にコレクション名を挙げられる時計愛好家もいるだろう。
知名度でみれば、それ以上に認知されているブランドはいくつもある。しかし、ブレゲは時計の発展に寄与し、時計史にその名を残す。
その時計は芸術品と言っても過言ではなく、これまで唯一無二の存在であり続けてきた。歴史上の要人からも愛されたブレゲの魅力を探っていこう。
ブレゲとマリー・アントワネットの出会い
ブレゲの歴史は長く、深い。1775年、アブラアン-ルイ・ブレゲ(1747-1823)によって創設された。ブレゲは、時計の歴史を200年早めたといわれるほどの伝説的な天才技師である。
その“天才”ぶりは、現在の時計に用いられている機構の4分の3はブレゲが発明、ないしは改良したもの、という事実からもうかがい知ることができる。なかでも「自動巻き」「パーペチュアル・カレンダー」「トゥールビヨン」などは、現代にも語り継がれている革新的技術であり、時計界全体に大きな影響を与えてきた。
ロシア皇帝のアレクサンドル1世(1777-1825)や、ナポリ王妃カロリーヌ・ミュラ(1782-1839)、そしてナポレオン・ボナパルト(1769-1821)など歴史上の人物にも、アブラアン-ルイ・ブレゲ愛好家は数多い。
そして、かのフランス国王ルイ16世(1754-1793)の王妃マリー・アントワネット(1755-1793)との出会いは、アブラアン-ルイ・ブレゲにとっても非常に重要なものとなった。
ブレゲの時計を愛し続けた
本格的な機械式時計は、時として見る者に無骨なイメージを与える。しかし同時に、精緻なメカニズムは高貴なまでのエレガントさを漂わせ、世界の王族は魅了された。
マリー・アントワネットもそのひとりであった。あらゆる面で最高を求めた彼女は、時計に関しても美麗を極めた極上の品だけを手にしていたのである。
そして彼女の心を魅了したのが、アブラアン-ルイ・ブレゲの時計であった。複雑なムーブメントは、無機質で単調な動きを繰り返す。しかし、その優れた精密さには芸術性すら備わっていると感じていたとされる。
いくつもの時計を所有し、さらに国内外の上流階級の客人にも彼の時計をすすめた。いつしか彼女はアブラアン-ルイ・ブレゲにとって最上・最大のパトロンとなったのである。
そして1783年、マリー・アントワネットの使者を名乗る男はブレゲに対し、時計の歴史の1ページに残る、ひとつのオーダーをすることになる。
伝説の時計 ブレゲ NO.160(マリー・アントワネット)
それまでの時計の歴史を塗り替え、現代の時計の基礎を築いたといえるアブラアン-ルイ・ブレゲが製作した時計の中で、伝説と呼ばれるモデルがある。それが「ブレゲ NO.160」、通称「マリー・アントワネット」と呼ばれる複雑時計だ。
そのオーダーに至る過程は、いまだベールに包まれている部分がある。神秘に満ちた最高傑作の背景に迫る。
謎の人物による発注
ブレゲがひとりの男からとある注文を受けたのは、1783年のことだ。男は、自分はマリー・アントワネット妃の使者であると口にした。
オーダーしたのは複雑時計の製作。そしてその内容は驚くべきものであった。
「時間も費用も一切の制限を取り払い、複雑機構のすべてを盛り込んだ世界最高の時計を作って欲しい」。
この逸話には諸説ある。この男が本当にマリー・アントワネットの使いであったとも、彼女の心を射止める目的を持った高位の宮廷人ともいわれている。
ブレゲの死後に完成
この男の要請を受けて、アブラアン-ルイ・ブレゲは複雑時計の製作に取り掛かる。それまでも彼の時計を愛用していた王妃に最高の逸品を届けることは、時計師として重要な仕事だった。
しかし、製作途中の1789年、フランス革命が勃発する。暴動から逃れるため、アブラアン-ルイ・ブレゲもスイスへと移住し、時計の製作は一旦中断された。
ほどなく王妃は、革命裁判により処刑される。王妃の死を知ってなお、王妃のために時計を作り続けた。そしてそのアブラアン-ルイ・ブレゲも、時計の完成を前にこの世を去ることとなった。
製作を受け継いだ弟子たちの手により完成を見たのは、注文から44年、王妃の死から34年、アブラアン-ルイ・ブレゲの死から4年が経過していた。これが伝説の時計「NO.160」(マリー・アントワネット)である。
ブレゲ NO.160(マリー・アントワネット)を復刻
完成した「NO.160」に引き取り手は現れず、1867年までブレゲ家の私財として保管。その後、時計愛好家でブレゲコレクターのデヴィッド・ライオネル・サロモンズ卿のもとに渡った。
1925年にサロモンズ卿が死去すると、遺族は時計を1960年代にエルサレムのL.A.メイヤー記念イスラム美術館に寄贈する。しかし1983年、何者かによって美術館から盗み出されてしまうのである。
古い資料を徹底調査
ブレゲは人類史上の遺産ともいえる最高傑作が行方不明である現状を憂い、復刻するためのプロジェクトを2004年に密かに立ち上げた。
復刻にあたり、過去の文献やモデルを徹底的に調査。そしてアーカイブに保管されている記録とオリジナル製図に基づいて製造された。
復刻モデルの完成を間近に控えた2007年の終わり、のちにブレゲにより本物と確かめられた盗難品がとあるコレクターの蒐集品から発見される。結局、ブレゲはオリジナルを一度も目にすることなく、また実物を仔細に調査することなく復刻させたのである。
伝説の時計を忠実に再現
機構やデザインはもちろんのこと、素材などディテール全てを忠実に再現するため、あらゆる妥協を排して製作は進められた。
直径63mmのケースは、特別な鋳型にイエローゴールドを流し込み、微妙なテイストまでも蘇らせた。アブラアン-ルイ・ブレゲの時代は「ペルペチュエル」と呼ばれていた独自の自動巻き機構も、寸分の狂いなく再構築されているのだ。
現存するデッサンと資料をベースに製造された「NO.1160」(マリー・アントワネット)を復刻。搭載されるアブラアン-ルイ・ブレゲの発明はパラシュート(耐衝撃吸収機構)、ブレゲ針、ゴング(ミニッツリピーター)、均時差(イクエーション)、自動巻き、パーペチュアル・カレンダー。シースルーで機械を余すところなく堪能できる。自動巻き。63石。パワーリザーブ約48時間。YG(直径63mm、厚さ26.2mm)。
バーゼルワールド2008で発表
2008年4月、ついに復刻モデルが発表されることとなる。スイスで行われる世界最大の時計・宝飾品見本市、バーゼルワールドの場で記者会見を行い、No.1160と銘が打たれた現代の「マリー・アントワネット」が披露された。
このニュースは、世界の時計ファンの間に瞬く間に広がり、大きな衝撃を与えた。時計愛好家の富豪たちには譲り受けることを申し出た者もいるようだが、ブレゲは販売には応じていない。
それだけでなく、この復刻モデルが披露される機会も数えるほどしかなく、これも謎に満ちた名作にふさわしいことなのかもしれない。
アブラアン-ルイ・ブレゲによる“発明”の数々が盛り込まれた逸品だが、トゥールビヨンは搭載されていない。その理由は発注を受けた1783年にはこの機構はまだ世に出ていなかったためだ。トゥールビヨンの特許申請は1801年のこと。マリー・アントワネットの人生が違っていたら間違いなく、コレクションに加わっていたことだろう。
マリー・アントワネットも愛したブレゲ
時計の長い歴史の中で、最高度に上質な時計を世に送り出してきたブレゲ。アブラアン-ルイ・ブレゲによる熱烈なファンだったマリー・アントワネットは、刑務所に幽閉されている時ですら「シンプルなブレゲの時計」を求めた。この時計は1792年9月に納品され、マリー・アントワネットの最期の日々に寄り添うこととなった。
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